ヴィシュキ・ヤーノシュとは? わかりやすく解説

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ヴィシュキ・ヤーノシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/24 18:56 UTC 版)

ヴィシュキ・ヤーノシュ
Viski János
基本情報
生誕 (1906-06-10) 1906年6月10日
 ルーマニアコロジュヴァール
死没 (1961-01-16) 1961年1月16日(54歳没)
ジャンル 近代音楽
職業 作曲家

ヴィシュキ・ヤーノシュハンガリー語: Viski János, 1906年6月10日 - 1961年1月16日)は、ハンガリー作曲家

経歴

幼少期から修学期

1906年、コロジュヴァール(現・ルーマニアクルージュ=ナポカ)で地主の家に生まれた。そのため、音楽に関心があったものの、農業に従事しなければならなかった。ヴァイオリンを学び、19歳の時に3回のソロリサイタルを開いた。その後作曲に関心を持つようになり、1927年に農業事業の傍らリスト音楽院に入学。卒業する1932年まで、コダーイ・ゾルターンに師事した。音楽院で音楽を学ぶ一方で、エトヴェシュ・ロラーンド大学哲学美術史についても学んだ。1932年に卒業し、故郷に戻った。

音楽院卒業後

農地を経営し農業を営む一方で、作曲活動を続けた。郷里で最初に作曲した交響曲で、1937年にヴィクトル・ヴァジーの指揮でハンガリー・ラジオ英語版で発表された。その曲は1939年にブダペストで開催されたコンサートでオランダ人指揮者ウィレム・メンゲルベルクブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団を率いて演奏し、その後欧州各地で演奏されたため、名を知られるようになった。同1939年には、バラッシ・バーリントの詩に触発されて交響詩『エニグマ』を作曲。

1941年、クルジュ=ナポカ音楽演劇院(現・トゥルグ・ムレシュ芸術大学フランス語版)の院長に就任[1]1942年からブダペスト音楽院の作曲科教授となり、作曲を教えた。この時に、ブダペストに居を移した。エトヴェシュ・ペーテルほか多くの後進を育て、1961年に死去。

受賞・栄典

  • キスファルディ協会英語版からグレグス・パール記念メダルを授与。交響詩『エニグマ』に対して。
  • 1954年:フェレンツ・エルケル賞を受賞。
  • 1955年:ハンガリー功労芸術家賞を受賞。
  • 1956年:コシュート賞英語版を受賞。

作曲作品について

交響組曲、ヴァイオリン協奏曲ピアノ協奏曲チェロ協奏曲、バリトンと管弦楽のためのバラード、合唱歌曲などを作曲した。

文献

  • Dobos Kálmán: V. J. Bp., 1963.

脚注

  1. ^ 1932年に任命が議論されていたが、正式に任命されたのは1941年。




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