ルネ・ド・フルーレ_(テッセ伯)とは? わかりやすく解説

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ルネ・ド・フルーレ (テッセ伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/03 10:05 UTC 版)

テッセ伯ルネ・ド・フルーレ

テッセ伯ルネ・ド・フルーレ(René de Froulay, comte de Tessé, 1648年5月14日 - 1725年3月30日)は、フランスブルボン朝の軍人、外交官。同名のテッセ伯ルネ・ド・フルーレの長男としてル・マンで生まれた。同じく軍人のフィリベール・エマニュエル・ド・フルーレは弟。

オランダ侵略戦争で軍歴を始め、1685年竜騎兵の隊長としてプロテスタント迫害に取り組んだ。1688年大同盟戦争が起こると1689年ドイツプファルツ地方の略奪・荒廃を行い、1693年イタリアピネローロを包囲・陥落させた。同年からサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世と秘密交渉を行い、1696年にサヴォイアを戦争から離脱させた。1703年元帥に任命され、スペイン継承戦争では1704年からベリック公に代わってスペインへ派遣された。

スペイン戦線では1705年イングランド軍に奪われたジブラルタルの奪回を図ったが、イングランド艦隊にフランス艦隊を撃破されたため失敗(マルベラの海戦)、包囲を解いて撤退した。同年にポルトガルからイングランド・ポルトガル同盟軍の進出を阻んだ。1706年に同盟軍の拠点だったバルセロナフェリペ5世と共に落とそうとして包囲したが、バレンシアとジブラルタルから救援が来たため撤退した(第2次バルセロナ包囲戦)。翌1707年にフランス南部のトゥーロンに派遣され、プリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍を迎え撃ち、オーストリア軍からのトゥーロン守備を果たした(トゥーロン包囲戦)。

その後は外交官として活動、1708年に駐ローマ大使、1724年に駐スペイン大使を務め、フェリペ5世の長男ルイス1世が急死した事態を受け、フェリペ5世の復位を確認した。1725年にイエールで76歳で亡くなった。

参考文献

  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史彩流社、2007年。



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