ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 17:14 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| ルクレツィア Lucrezia |
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| モデナ公妃 | |
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ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ(アーニョロ・ブロンズィーノ画)
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| 在位 | 1559年 - 1561年 |
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| 出生 | 1545年2月14日 |
| 死去 | 1561年4月21日(16歳没) |
| 埋葬 | |
| 結婚 | 1558年7月3日 ヴェッキオ宮殿 |
| 配偶者 | モデナおよびフェラーラ公アルフォンソ2世・デステ |
| 家名 | メディチ家 |
| 父親 | トスカーナ大公コジモ1世 |
| 母親 | エレオノーラ・ディ・トレド |
ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ(イタリア語: Lucrezia di Cosimo de Medici, 1545年2月14日 - 1561年4月21日)は、モデナおよびフェラーラ公アルフォンソ2世・デステの最初の妃。
生涯
のちにトスカーナ大公となるコジモ1世と妃エレオノーラ・ディ・トレドの三女(第5子)として、フィレンツェで誕生。姉はイザベッラ、兄にフランチェスコ1世・デ・メディチがいる。1558年にアルフォンソと結婚したが、1560年にフェラーラへ移った翌年に急死した。子供はなく、夫に毒殺されたと、広く噂された。
ブロンツィーノによる肖像画が残り、彼女にちなんで19世紀のイギリスの詩人ロバート・ブラウニングが“My Last Duchess”を書いた。
固有名詞の分類
| メディチ家 |
フェルディナンド・デ・メディチ モナ・リザ クラウディア・デ・メディチ ロレンツィーノ・デ・メディチ ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ |
| モデナ公妃 |
シャルロッテ・フェリーツィタス・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク ラウラ・マルティノッツィ マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼ マリーア・ファルネーゼ ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ |
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