ユーリー・ドルゴルーキーとムスチスラフの子らとの争い
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「キプチャク」の記事における「ユーリー・ドルゴルーキーとムスチスラフの子らとの争い」の解説
1149年、ユーリーは戦士たちおよびポロヴェッツ人を集め、7月24日に出発し、ヴァチチに来た。ユーリーはダヴィドの子ヴラヂミルとイジャスラフが彼に従うことを拒絶したと聞いて、スターラヤ・ペラヴェジャに赴き、ペラヴェジャの近くでポロヴェッツ人の来着とイジャスラフの恭順を待ちつつ、1か月留まっていた。イジャスラフから報告がないのを見て、そこからスポイ川に向けて出発した。スポイ河畔においてユーリーのもとへ多数のポロヴェッツ人がやって来た。ユーリーは兄ヴャチェスラフと自分の子らと共にルーツクへ向かった。ユーリーの子ロスチスラフは弟のアンドレイと共にポロヴェッツ人を率いて先発し、ムラヴィツァのほとりに留まった。夜中に激しき敵襲があり、ポロヴェッツ人たちはことごとく逃げだした。アンドレイは黎明までにポロヴェッツ人が逃げ去ったのを見て、兄のもとへ赴いた。再び彼らとポロヴェッツの侯たちも相会し、退却することに決め、父からの助力を期待しつつ、ドゥーブノの近くに留まった。 1151年、ユーリーはキエフに向かって兵を進め、ラドゥニに留まった。多くのポロヴェッツ人が彼のもとに助力に来た。彼らはキエフからデスナ川の河口に至るドニェプル川に沿って「川船(ナサード)」の上で戦い始めた。一方はキエフ側から「川船」の上で激しく戦い、他方は陣営から戦ったが、キエフ側に対して成功を得なかった。ユーリーはダヴィドの子ヴラジミル、オレーグの子スヴャトスラフ及びフセヴォロドの子スヴャトスラフ、ポロヴェッツ人と共に思案し、ゾロッチャを過ぎてから彼らの船はドニェプル川に入った。ユーリーのポロヴェッツ人は草原に沿って進んだ。ヴャチェスラフとイジャスラフ2世は兄弟のロスチスラフ,ダヴィドの子イジャスラフ,兄弟のヤロスラフ,ゴロドノの侯ボリス,親衛隊、キエフの人々及び黒頭巾(チョールヌイエ・クロブキ)らと共に思案して後、ドニェプル川の上流に向かい、ヴィチチェフとミロスラフスコエ村の近くで彼らに向かい合って留まった。そこで両軍は「川船」で相会しながら、浅瀬のほとりで戦い、互いに捕虜を捕え合った。イジャスラフ2世はここで彼らにドニェプル川を渡らせなかった。敵も味方も反対の側に移ることが出来なかった。ユーリーはポロヴェッツ人と自分の子らを共に行かせた。ユーリーの子ら,フセヴォロドの子スヴャトスラフおよびポロヴェッツ人らはザルーブ(ru)の浅瀬に到着し、ドニェプル川を越えるべく出発した。ポロヴェッツ人はイジャスラフ2世の哨戒兵がいないのを見て、馬にまたがり、彼らに向かって出発した。ユーリーの子らおよび二人のスヴャトスラフはポロヴェッツ人と共にドニェプル川を越えた。ユーリーもダヴィドの子ヴラヂミルと共に速やかにザルーブに来てドニェプル川を越えた。
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