マードー・ラーオ・シンディア2世とは? わかりやすく解説

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マードー・ラーオ・シンディア2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 14:43 UTC 版)

マードー・ラーオ・シンディア2世
Madho Rao Scindia II
シンディア家当主
グワーリヤル藩王
マードー・ラーオ・シンディア2世
在位 1886年 - 1925年
戴冠式 1894年12月15日
別号 マハーラージャ

出生 1876年10月20日
グワーリヤル
死去 1925年6月5日
フランスパリ
子女 ジョージ・ジーヴァージー・ラーオ・シンディア
家名 シンディア家
父親 ジャヤージー・ラーオ・シンディア
宗教 ヒンドゥー教
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マードー・ラーオ・シンディア2世(Madho Rao Scindia II, 1876年10月20日 - 1925年6月5日)は、 シンディア家の当主、グワーリヤル藩王国の君主(在位:1886年 - 1925年)

生涯

マードー・ラーオ・シンディア2世

1876年10月20日シンディア家当主にして藩王ジャヤージー・ラーオ・シンディアの息子として生まれた[1]

1886年6月20日、ジャヤージー・ラーオは死亡し、マードー・ラーオ・シンディア2世がその地位を継承した[1]

1894年12月15日までマードー・ラーオは摂政評議会の下で統治し、以降は自身で統治をはじめた[1]

1900年清朝中国義和団の乱がおきると、イギリス軍(イギリス領インド帝国軍)の一員として中国へと赴き[1]、傷病兵の救護にあたった。

1902年8月9日ウェストミンスター寺院で行われたイギリス初代国王エドワード7世の戴冠式に出席した[1]

1903年1月1日、マードー・ラーオはデリー・ダルバールに出席し、21発の祝砲を受けた(本来なら19発)[1]

1911年6月2日、ウェストミンスター寺院で行われたイギリス国王ジョージ5世の戴冠式に出席した[1]

同年12月12日、マードー・ラーオは再びデリー・ダルバールに出席した際、このとき21発の祝砲を受けた[1]

1925年6月5日、マードー・ラーオはフランスを旅行中、パリで急死した。その遺体はパリ郊外のペール・ラシェーズ墓地で火葬された[1]

人物

  • 旅行家であり、イギリス、フランスなどヨーロッパ諸国へとよく旅立った。
  • 英国に対して忠誠心が厚く、2度の英王戴冠式に出席したばかりか、息子の名の一部にはジョージ5世の名を入れた。
  • ヴァドーダラー藩王サヤージー・ラーオ・ガーイクワード3世の娘インディラー・ラージェー(インディラー・デーヴィー)の婚約者であった。しかし、インディラがクーチ・ビハール藩王国の王子ジーテーンドラ・ナーラーヤンと恋に落ちたため、結局これは破談となった。

出典・脚注

  1. ^ a b c d e f g h i Gwalior 4

関連項目




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