ジャヤージー・ラーオ・シンディアとは? わかりやすく解説

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ジャヤージー・ラーオ・シンディア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/06/20 15:36 UTC 版)

ジャヤージー・ラーオ・シンディア
Jayaji Rao Scindia
シンディア家当主
グワーリヤル藩王
ジャヤージー・ラーオ・シンディア
在位 1843年 - 1886年
戴冠 1843年2月22日
出生 1835年1月19日
死去 1886年6月20日
グワーリヤルラシュカル
ジャイ・ヴィラース・マハル
子女 マードー・ラーオ・シンディア2世
王家 シンディア家
父親 ハヌワント・ラーオ・シンディア
ジャンコージー・ラーオ・シンディア2世(養父)
宗教 ヒンドゥー教
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ジャヤージー・ラーオ・シンディア(Jayaji Rao Scindia, 1835年1月19日 - 1886年6月20日)は、 インドシンディア家の当主、グワーリヤル藩王国の君主(在位:1843年 - 1886年)。

生涯

1835年1月19日シンディア家の一族ハヌワント・ラーオ・シンディアの息子として生まれた[1]

1843年2月7日、当主であり藩王ジャンコージー・ラーオ・シンディア2世が死亡し[2]、その妃によってジャヤージー・ラーオが養子として迎え入れられ、当主および藩王となった[3]

その後、ジャヤージー・ラーオは摂政である養母の下で統治し、1855年1月19日に彼が成人に達するまでそれは続いた[4]

1857年5月インド大反乱が勃発すると、ジャヤージー・ラーオはイギリスに味方したが、軍隊は反乱軍に味方してしまった。そのため、1858年6月に居城グワーリヤル城が占拠されると、一時避難しなければならなかった。その後、同月にイギリス軍により城が奪還されると、グワーリヤルに帰還した。

1871年1月1日、ジャヤージー・ラーオはデリー・ダルバールに出席した[5]。このとき、シンディア家に定められた祝砲は19発であったが、21発の祝砲を受けた[6]

1886年6月20日、ジャヤージー・ラーオは死亡し、息子のマードー・ラーオ・シンディア2世が当主位及び藩王位を継承した[7]

出典・脚注

  1. ^ Gwalior 4
  2. ^ Gwalior 3
  3. ^ Gwalior 4
  4. ^ Gwalior 4(ここでは1845年となっているが、そうなると10歳で直接統治をはじめたことになるので、これは誤植であろう。)
  5. ^ Gwalior 4
  6. ^ Gwalior 4
  7. ^ Gwalior 4

関連項目

Template:シンディア家の当主




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