マリア・クレメンティナ・ソビエスカとは? わかりやすく解説

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マリア・クレメンティナ・ソビエスカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/29 14:53 UTC 版)

マリア・クレメンティナ
Maria Klementyna
ソビエスキ家

出生 (1702-07-18) 1702年7月18日
神聖ローマ帝国
ボヘミア王国オワヴァ英語版
死去 (1735-01-18) 1735年1月18日(32歳没)
教皇領ローマ、パラッツォ・ムーティ
埋葬 教皇領サン・ピエトロ大聖堂
配偶者 ジェームズ・フランシス・ステュアート
子女 チャールズ・エドワード
ヘンリー・ベネディクト
父親 ヤクプ・ルドヴィク・ソビエスキ
母親 ヘートヴィヒ・エリーザベト・フォン・デア・プファルツ
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マリア・クレメンティナ・ソビエスカ英語: Maria Clementina Sobieski, ポーランド語: Maria Klementyna Sobieska, 1702年7月18日 - 1735年1月18日)は、イングランドの「老僭王」ジェームズ・フランシス・ステュアートの妃。

生涯

ポーランド王ヤン3世ソビエスキの長男ヤクプ・ルドヴィク・ソビエスキと、プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムの娘ヘートヴィヒ・エリーザベトの間に生まれ、当時のヨーロッパでは資産家の娘として知られた。マリアがジェームズと婚約すると、彼に後継者が生まれるのを恐れたジョージ1世は結婚に反対した。ジョージの依頼により、神聖ローマ皇帝カール6世は、結婚のためイタリアに向かうマリアを捕らえた。マリアはインスブルックの城に留め置かれたが、警備兵がマリアを逃がし、ボローニャにたどり着いた。

1719年9月1日のモンテフィアスコーネでのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート王子とマリア・クレメンティナ・ソビエスカ王女の結婚式(アゴスティーノ・マスッチ英語版画、1735年頃)

1719年9月、モンテフィアスコーネの聖マルゲリータ大聖堂でマリアはジェームズと結婚した。ローマ教皇クレメンス11世は、2人をカトリックのイングランド王夫妻として扱い、ローマに滞在するよう要請した。教皇は2人に教皇庁の警護兵を与え、ローマに邸宅とアルバノに別荘を与えた。カトリック教会からも12,000クラウンもの年金が与えられた。マリアとジェームズには2子が生まれた。「若僭王」チャールズ・エドワードヘンリー・ベネディクトである。

2人の結婚生活はうまくいかなかった。次男ヘンリーの誕生後、マリアは一人ローマの聖チェチーリア修道院へ身を寄せた。彼女は夫の不貞を訴えたが、ジェームズは夫と子供を置いて出奔したことは罪深いことだと反論した。2人が和解するまで2年以上かかり、その間彼女は沈みがちになり、祈りの生活を送った。マリアはわずか32歳で、1735年に亡くなった。彼女は王族の礼をもって、ローマのサン・ピエトロ大聖堂に葬られた。教皇ベネディクトゥス14世は、彫刻家ピエトロ・ブラッチに命じて聖堂内に彼女の彫像をつくらせた。

子女

関連項目

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