プラド音楽祭の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 04:27 UTC 版)
「パブロ・カザルス」の記事における「プラド音楽祭の誕生」の解説
1947年、ヴァイオリニストのアレクサンダー・シュナイダーがカザルスを訪ね、アメリカでの演奏を申し出たがカザルスはこれを断った。手ぶらで戻ってきたシュナイダーはカザルスと親交があるミェチスラフ・ホルショフスキと相談した。カザルスを引っ張り出すのは無理でも、音楽家がカザルスのところへ集まれば演奏会は可能だと判断し、1950年、シュナイダーはアメリカ・コロンビア社の資金協力を得て、プラドでカザルスを音楽監督としたバッハ音楽祭を開くことを提案し、カザルスの説得に成功した。プラド音楽祭の誕生であった。音楽祭の模様は、コロンビア社によってLP録音された。プラド音楽祭は1950年から毎年開かれたが、コロンビア社の資金難や意向、カザルスたち演奏家同士の意向が衝突するなど、次第に運営が困難になっていく。1957年にカザルスがプエルトリコに本拠を移して以降は、この地でカザルス自身が音楽祭を開催した。1960年からは、カザルスはルドルフ・ゼルキンが主宰するマールボロ音楽祭に参加し、演奏家・指導者としてオーケストラを指揮・録音するようになる。このときのマールボロ音楽祭には、日本人ヴィオリストの今井信子やオーボエの鈴木清三も参加している。
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