フセヴォロド・ムスチスラヴィチ (ノヴゴロド公)とは? わかりやすく解説

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フセヴォロド・ムスチスラヴィチ (ノヴゴロド公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/19 04:07 UTC 版)

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フセヴォロド・ムスチスラヴィチ
Всеволод Мстиславич
ノヴゴロド公
ペレヤスラヴリ公
ヴィシゴロド公
プスコフ公
在位 ノヴゴロド公:1117年 - 1132年、1132年 - 1136年
ペレヤスラヴリ公:1132年
ヴィシゴロド公:1136年
プスコフ公:1138年

出生 1095年以降
死去 1138年2月11日
埋葬 プスコフ至聖三者大聖堂
配偶者 チェルニゴフ公子スヴャトスラフの娘
子女 イオアン
ヤンカ
ウラジーミル
ヴェルフスラヴァ
家名 リューリク家
父親 キエフ大公ムスチスラフ1世
母親 クリスティーナ・インゲスドッテル
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フセヴォロド・ムスチスラヴィチロシア語: Всеволод Мстиславич1095年以降 - 1138年2月11日)は、キエフ大公ムスチスラフとその妻クリスティーナとの間の子である。ノヴゴロド公:1117年 - 1132年、1132年 - 1136年、ペレヤスラヴリ公:1132年、ヴィシゴロド公:1136年、プスコフ公:1138年。聖名ガヴリイル。またロシア正教会では、ブラゴヴェルヌィー(ru)・クニャージたるフセヴォロド・プスコフスキー(プスコフのフセヴォロド)として尊敬されている。

生涯

1117年、父ムスチスラフによってノヴゴロド公に任じられ、1132年までその地位にあった。1131年にはチュヂ族との戦いに敗れている[1]。1133年には、フセヴォロドとノヴゴロド軍(ru)はユーリエフ(現タルトゥ)を占拠した。

今に残る勅令(グラーモタ(ru))から、フセヴォロドは商人団体であるイヴァン商人団を組織したことが知られる[1]。イヴァン商人団は、聖イヴァン教会(ru)に委託され、蜂蜜の取引を行った[注 1]

1132年、父ムスチスラフが死ぬと、叔父のペレヤスラヴリ公ヤロポルクは父のムスチスラフとの合意に従って[3]、フセヴォロドをペレヤスラヴリへ異動させたが、父・叔父の他の年少の兄弟たちは、ヤロポルクの意図はフセヴォロドを自身の相続人としようとするものであると見て取り[3]、父・叔父の兄弟の1人であるロストフ・スーズダリ公ユーリーが、フセヴォロドを追放してペレヤスラヴリを自身の手中に収めた。その後まもなくしてヤロポルクは年長の兄弟たちと共に、ペレヤスラヴリに、フセヴォロドの兄弟のうちの1人であるイジャスラフを送り込んだが、ペレヤスラヴリの統治権掌握には失敗した。イジャスラフが、フセヴォロドの統治するノヴゴロドへ撤退すると、フセヴォロドはイジャスラフと共に、ロストフ・スーズダリ公ユーリーの治めるロストフ・スーズダリ公国への遠征を行った。すなわち、1135年のジャナヤ・ゴーラ(ジャン森)の会戦(ru)である。しかしこの戦いにフセヴォロド・イジャスラフ兄弟は敗れた。

敗戦の後、フセヴォロドはポサードニクのコンスタンチン(ru)の支援を得てノブゴロド公位を保ったが、1136年、市民が反乱を起こし、フセヴォロドは追放された。ソ連の歴史学者B.グレコフ(ru)は、これを「12世紀のノヴゴロドの革命」と評し、ノヴゴロド共和国の幕開けであると位置づけている。追放されたフセヴォロドはキエフの叔父ヤロポルクの元に身をよせ、ヴィシゴロドを受領した[4]。また、最晩年はプスコフ公として過ごした後、1138年2月11日に死亡した[5]。遺体はプスコフ至聖三者大聖堂に葬られた。

1549年、マカリー大聖堂(ru)において列聖された。記憶日ユリウス暦の2月11日、4月22日、11月27日となっている[6]

妻子

妻はチェルニゴフ公子スヴャトスラフ(ru)の娘[7](アンナ?)。子には以下の人物がいる。

脚注

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注釈

  1. ^ 本頁の「イヴァン商人団」、「聖イヴァン教会」は栗生沢猛夫の訳による[2]

出典

  1. ^ a b Новгородская первая летопись старшего и младшего изводов. — М.-Л.: «Издательство Академии Наук СССР», 1950. — 659 с //«Ізборник». Історія України IX—XVIII
  2. ^ 栗生沢猛夫「分領制ロシアの時代 -諸公国の分立とモンゴルの侵入」 // 『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』、田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編、山川出版社、1995年。 - p140
  3. ^ a b Пресняков А. Е. Княжое право в Древней Руси. Лекции по русской истории. Киевская Русь — М.: Наука, 1993.
  4. ^ Ипатьевская летопись//Полное собрание русских летописей.т.2.Санкт-Петербург,1908//«Ізборник». Історія України IX—XVIII
  5. ^ Е. А. Болховитинов «Исторія княжества псковскаго. Часть IV»- Кіевъ.: «Въ Типографіи Кіево-Печорской Лавры», 1831 — (стр.4)
  6. ^ Святой благоверный князь Всеволод Псковский
  7. ^ Житие преподобного Николая Святоши
  8. ^ Елена Всеволодовна // Энциклопедическiй Словарь Брокгауза и Ефрона(『ブロックハウス・エフロン百科事典』)
先代:
ムスチスラフ1世
ノヴゴロド公
1117年 - 1132年
次代:
スヴャトポルク
先代:
ヤロポルク2世
ペレヤスラヴリ公
1132年
次代:
ユーリー・ドルゴルーキー
先代:
スヴャトポルク
ノヴゴロド公
1132年 - 1136年
次代:
スヴャトスラフ
先代:
プスコフ公
1138年
次代:
スヴャトポルク



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