ウラジーミル・フセヴォロドヴィチ_(ノヴゴロド公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ウラジーミル・フセヴォロドヴィチ_(ノヴゴロド公)の意味・解説 

ウラジーミル・フセヴォロドヴィチ (ノヴゴロド公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/19 03:44 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ウラジーミル・フセヴォロドヴィチ
Владимир Всеволодович
ノヴゴロド公
在位 1136年

死去 1141年
父親 ノヴゴロド公フセヴォロド
母親 チェルニゴフ公スヴャトスラフの娘
テンプレートを表示

ウラジーミル・フセヴォロドヴィチロシア語: Владимир Всеволодович、? - 1141年頃)は、1136年ノヴゴロド公位にあった人物である。

生涯

ウラジーミルはノヴゴロド公・プスコフ公フセヴォロド(ロシア正教会の聖人としてはプスコフのフセヴォロド)の子として生まれた。母はチェルニゴフ公スヴャトスラフ(聖人としてはニコライ・スヴャトーシャ(ru))の娘であった。

ウラジーミルは1136年にノヴゴロド公位に就いたが、これは、ロシアの歴史学者にとっては非常に劇的な出来事の起きた年である。すなわち、ノヴゴロドの民会(ヴェーチェ)の決定によって、ノヴゴロド公位にあったウラジーミルの父フセヴォロドが追放された事件である。歴史学者によっては、この事件を「ノヴゴロドの革命」(以降のノヴゴロド公国を「ノヴゴロド共和国」)と評している。

ウラジーミルは父の後釜としてノヴゴロド公位に据えられたが、ルーシの年代記(レートピシ)の記述より、まだ年少で、権限も限られていたと推測される。また、おそらくノヴゴロドの人々は、公の位が空位となることには危機感を持っていたとも推測されている[1]

しかし、その後まもなくしてチェルニゴフ公スヴャトスラフがノヴゴロド公に招かれ、ウラジーミルもまた公位を降りることとなった。

家族

ソ連の歴史学者V.パシュト(ru)によれば、ウラジーミルはポーランド公女リクサ(ru)ボレスワフ3世娘)と結婚し、後にデンマーク王ヴァルデマー1世の妻となるソフィヤはウラジーミルとリクサの間の娘であるとみなされていた[2]。ただし現在は、ソフィヤはミンスク公ヴォロダリの娘であるという説が有力である。

出典

  1. ^ Фроянов И. Я. Древняя Русь IX—XIII веков. Народные движения. Княжеская и вечевая власть. М.: Русский издательский центр, 2014. С. 285—286.
  2. ^ Пашуто В.Т. Внешняя политика Древней Руси. М., 1968. C. 421, генеалогическая таблица 2, № 17.
先代:
フセヴォロド
ノヴゴロド公
1136年
次代:
スヴャトスラフ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウラジーミル・フセヴォロドヴィチ_(ノヴゴロド公)」の関連用語

ウラジーミル・フセヴォロドヴィチ_(ノヴゴロド公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウラジーミル・フセヴォロドヴィチ_(ノヴゴロド公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのウラジーミル・フセヴォロドヴィチ (ノヴゴロド公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS