フォード・コスワース・DFVの登場
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「チーム・ロータス」の記事における「フォード・コスワース・DFVの登場」の解説
1966年はBRMのH型16気筒という「珍品」を持ち出すなど、思わしくない成績に止まるも、翌1967年に向けて、フォードの支援の下、ひそかにフォード・コスワース・DFVエンジンを開発。ドライバーもクラークに加えてBRMのヒルを迎えるジョイント・ナンバーワン体制を敷いた。クラークは、DFVエンジンを搭載した新型49のデビュー戦、オランダGPなど4勝をあげ、チャンピオンの座こそブラバムのデニス・ハルムに譲るが、通算勝利を24まで伸ばし、当時歴代1位のファン・マヌエル・ファンジオと並ぶタイ記録を達成した。(翌1968年の南アフリカGPでの勝利で単独1位となり、これは1973年のオランダGPで同郷のジャッキー・スチュワートに破られるまで最多勝記録であった) 翌1968年シーズンまでには49とDFVエンジンの信頼性も向上し、クラークは開幕戦南アフリカGP(予選は1967年12月31日で決勝日は1月1日)をヒルとの1-2フィニッシュで飾って、この年のチャンピオン最有力候補と見られていたが、第2戦スペインGP(決勝日は5月12日)までのインターバルの間の4月7日にホッケンハイムで行われたF2レースで事故死してしまう。迎えたスペインGPでロータスは史上初めてスポンサーカラー(ゴールドリーフ・タバコ)をまとって現れ、このレースでヒルがクラークの死を弔うかのように優勝を果たすと、その後も活躍を続け、自身6年ぶりのチャンピオンを、コンストラクターとのダブルタイトルで飾ることとなった。
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