バルバラ・デ・ブラガンサとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 貴族 > ブラガンサ家 > バルバラ・デ・ブラガンサの意味・解説 

バルバラ・デ・ブラガンサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/12 06:42 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
バルバラ・デ・ブラガンサ
Bárbara de Bragança
スペイン王妃
1729年頃
在位 1746年7月9日 - 1758年8月27日

全名 María Magdalena Bárbara Xavier Leonor Teresa Antonia Josefa de Bragança
出生 1711年12月4日
ポルトガル王国リスボン
死去 (1758-08-27) 1758年8月27日(46歳没)
スペイン帝国アランフエス
埋葬 スペイン帝国マドリード、サレサス・レアレス修道院
配偶者 スペインフェルナンド6世
家名 ブラガンサ家
父親 ポルトガルジョアン5世
母親 マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
宗教 ローマ・カトリック
テンプレートを表示

マリーア・マグダレナ・バールバラ・ハビエル・レオノール・テレサ・アントニア・ホセファ・デ・ブラガンサ(María Magdalena Bárbara Xavier Leonor Teresa Antonia Josefa de Bragança, 1711年12月4日 - 1758年8月27日)は、スペインフェルナンド6世の王妃。バルバラ・デ・ブラガンサとして知られる。

生涯

1725年

ポルトガルジョアン5世と王妃マリア・アナは、結婚後3年たっても子供に恵まれなかった。そのためジョアンは、後継者となる子供を授かったら神に感謝の印として修道院を創設すると約束した。その後生まれたのがバルバラだった。バルバラは良い教育を受け、音楽を愛した。彼女は当時有名な作曲家、チェンバロ奏者であったドメニコ・スカルラッティに教えを受けた。

1729年、バルバラは2歳年下のフェルナンドと結婚した。スカルラッティはバルバラに同行してマドリードへ永住し、彼女のために100曲ものチェンバロ・ソナタを作曲した。

バルバラは決して美女とは言えず、初対面でフェルナンドがショックを受けたという噂すら流れた。しかし、2人は音楽という共通の趣味で結ばれた仲の良い夫婦となった。バルバラの死でフェルナンドは悲嘆に暮れたという。2人には子供がなかった。

バルバラは生涯を通じて喘息に苦しみ、アランフエスで亡くなった。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「バルバラ・デ・ブラガンサ」の関連用語

バルバラ・デ・ブラガンサのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



バルバラ・デ・ブラガンサのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのバルバラ・デ・ブラガンサ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS