マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ_(1683-1754)とは? わかりやすく解説

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マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1683-1754)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/11 00:05 UTC 版)

マリア・アナ・デ・アウストリア
Maria Ana de Áustria
ポルトガル王妃
在位 1708年10月27日 - 1750年7月31日

出生 1683年9月7日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国リンツ
死去 (1754-08-14) 1754年8月14日(70歳没)
ポルトガル王国リスボン、リベイラ宮殿
埋葬 ポルトガル王国リスボン、ブラガンサ王家霊廟
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーンカプツィーナー納骨堂 (心臓)
結婚 1708年10月27日 リスボン
配偶者 ポルトガルジョアン5世
子女 バルバラ
ペドロ
ジョゼ1世
カルルシュ
ペドロ3世
アレシャンドレ
家名 ハプスブルク家
父親 神聖ローマ皇帝レオポルト1世
母親 エレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク
宗教 キリスト教カトリック教会
サイン
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マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (Maria Anna Josepha von Österreich, 1683年9月7日 - 1754年8月14日)は、ポルトガルジョアン5世の王妃。

生涯

神聖ローマ皇帝レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの娘として生まれた。ポルトガルではマリア・アナ・デ・アウストリア(Maria Ana de Áustria)と呼ばれた。

1708年、母方の従弟にあたるジョアンと結婚、7子の母となった。

1742年、卒中を起こし体の一部に麻痺が残った王の代わりに、国務を司った。1750年にジョアンが亡くなると、王太子ジョゼに受け継いだ。

1754年の死後、遺体はリスボンに葬られたが、心臓ウィーンに運ばれ、皇室の納骨堂に納められた。




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