ノウ・ナッシングと共和党
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「タデウス・スティーブンス」の記事における「ノウ・ナッシングと共和党」の解説
スティーブンスは議員を辞するとランカスター市での法律実務に専念し、州内でも指導的な弁護士の一人となっていた。政界での活動は継続し、1854年には反奴隷制度運動でより多くの票を得るために移民排斥主義の立場を採るノウ・ナッシング党に参加した。その党員は党の考え方について何も喋らない(そのために何も知らなかった、ノウ・ナッシング)と誓約していた。スティーブンスは、フリーメイソンと似たような秘密を規則とした集団に入ったことで攻撃された。1855年、スティーブンスは新しく結成された共和党に入党した。反奴隷制度運動の姿勢を打ち出していた元ホイッグ党員も、ニューヨーク州のウィリアム・スワード、マサチューセッツのチャールズ・サムナー、イリノイ州のエイブラハム・リンカーンなどが参加した。 スティーブンスは1856年共和党全国大会の代議員となり、1832年と同様にマクレーン判事を支持した。しかし、この大会ではジョン・C・フレモントが指名された。スティーブンスはかつての僚友である民主党候補ジェームズ・ブキャナンに対抗するフレモントの選挙戦を活発に支援した。それでもペンシルベニア州はブキャナンを選ぶことになった。スティーブンスは法律実務に復帰したが、1858年には議論の多かった「ドレッド・スコット対サンフォード事件」判決などによって大統領と民主党が不人気となり、国内が割れるような事態となって、アメリカ合衆国下院に復帰する時だと考えた。スティーブンスは共和党候補として容易に当選した。民主党系の新聞はショックを受けた。ある見出しでは「ニガーリズムの勝利」と書かれた。
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