ニカイア帝国への服属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 16:26 UTC 版)
「テッサロニキ帝国」の記事における「ニカイア帝国への服属」の解説
1241年、テオドロス1世はニカイア帝国に赴いた。ニカイア皇帝ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスは彼に安全を保証していたが、テオドロス1世が到着すると約定を破り、彼を虜囚とした。翌年ヨハネス3世は軍を率いてヨーロッパ大陸に上陸し、テッサロニキに侵攻した。モンゴル帝国が小アジアに侵攻したという報を受けて撤退したものの、テッサロニキ皇帝ヨハネス・コムネノス・ドゥーカスを服従させることに成功した。ヨハネス・コムネノス・ドゥーカスは帝号を放棄してニカイア帝国に従う代わりに、専制侯としてテッサロニキを統治し続けることを認められた。 1244年、ヨハネス・コムネノス・ドゥーカスが死去し、弟デメトリオス・アンゲロス・ドゥーカスが跡を継いだ。しかし彼は軽薄な人物で、すぐに臣下たちの信頼を失ってしまった。1246年、ヨハネス3世が再びヨーロッパに侵攻し、3か月の間にブルガリアからトラキアの大部分とマケドニアのほとんどを奪い取った。同時にエピロスのミカエル2世コムネノス・ドゥーカスも西マケドニアに進出した。ヨハネス3世は遠征の仕上げとしてテッサロニキに向かった。ニカイア帝国軍が現れたとき、デメトリオスは市外に出てヨハネス3世に臣下の礼をとることを拒否したが、すでにテッサロニキの市民たちは彼を見捨てており、ヨハネス3世による征服を望んでいた。市内の協力者によって城門が開けられ、テッサロニキはニカイア帝国軍の手に落ちた。ヨハネス3世はアンドロニコス・パレオロゴスをテッサロニキの総督とし、デメトリオスには小アジアに領地を与え、流刑の形ながらその生活を保障した。その父テオドロス1世は対照的に、ヴォデンへ流刑となった。
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