トラヴァンコール侵攻と開戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 14:20 UTC 版)
「第三次マイソール戦争」の記事における「トラヴァンコール侵攻と開戦」の解説
そうしたなか、1789年にマイソール王国領であるマラバール海岸一帯で反乱が起きた。ティプー・スルターンは軍を送りこれを鎮圧したが、殺害を免れた反乱者はケーララ地方、トラヴァンコール王国とコーチン王国へと逃げ込んだ。 1789年12月、ティプー・スルターンはコインバトールに軍勢を集め、マイソール軍がトラヴァンコール王国の領土に侵攻した。 かくして両国は交戦状態となり、トラヴァンコール王ダルマ・ラージャはイギリスの援助の下、マイソール軍を迎撃するため要塞による防衛線を張り、同月18日にネドゥムコーッタで戦闘を交えた(ネドゥムコーッタの戦い)。これが第三次マイソール戦争の始まりであるとする説がある。 第二次戦争の講和条約であるマンガロール条約では同国の不可侵が定められていたため、これはマイソール王国を脅威とするイギリスに対して宣戦の口実を与えてしまう。だが、ベンガル総督チャールズ・コーンウォリスの怒りはティプー・スルターンではなく、マドラス政庁の弱腰な態度に対して向けられていた。 1790年4月、ティプー・スルターンはトラヴァンコール王国に再び侵入してネドゥムコーッタの防衛線を再び攻撃し、同月末にこれを破ったが、トラヴァンコール側の反撃にあい大きな損害を被った。
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