テュイルリー宮殿襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:50 UTC 版)
「クレール・ラコンブ」の記事における「テュイルリー宮殿襲撃」の解説
革命勢力が立法議会に提出した国王廃止の請願書の期限切れの翌8月10日、サン・キュロットと連盟兵が蜂起してテュイルリー宮殿を襲撃。国王一家を捕えてタンプル塔に幽閉した。この8月10日事件にラコンブも武装して参加し、腕を撃たれたにもかかわらず、最後まで戦闘を続けた。彼女はこの武勲により、連盟兵から「市民の栄冠(フランス語版)」と「国民の飾緒」および感状を受け、「この危機に際して勇敢さと愛国心を発揮した」立法議会こそが「市民の栄冠」に値するとして、これを議会に進呈した。 ラコンブは、1792年10月21日にフランス制圧下となったマインツ(翌93年3月17日にマインツ共和国成立)で主役を演じる話があり、「契約条件が非常に有利であったにもかかわらず」、これを断ってパリに留まった。
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