ツァーリ・アレクセイの戴冠と敬虔派の聖職者たち
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「ニーコン (モスクワ総主教)」の記事における「ツァーリ・アレクセイの戴冠と敬虔派の聖職者たち」の解説
1645年にツァーリ・ミハイルの息子アレクセイ(1629-1676年)が16歳で即位した。若く、信仰厚いツァーリのもとに、改革意識の強い聖職者が何人もモスクワに呼び寄せられた。のちの研究では、教会改革に取り組んだ聖職者たちを敬虔派(боголюбцы)と呼ぶようになった。ニーコンもその一人である。ほかには、改革反対に転じるニジニ・ノヴゴロドのアヴァクーム(1620年 - 1682年)もいる。ニーコンがモスクワに上ると、ツァーリ・アレクセイに厚遇され、モスクワのノヴォスパスキー修道院長、つづいてノヴゴロド府主教に任命されるなど、急速な出世を遂げた。 敬虔派の主張の中心は、多旋律の禁止と説教の導入、また聖職者の規律の改革であった。だが、多旋律の禁止は、奉神礼の方式を大きく変えることになるため、正教会中心部の取り組みは遅かった。当時ノヴゴロド府主教であったニーコンは、すでに管轄下で多旋律を禁止し、またモスクワに上るたびにツァーリ・アレクセイに単旋律での勤行を披露していた。1651年に、アレクセイが招集した教会会議で、単旋律の導入が決定された。ツァーリに大きな影響を与えたのは、ニーコンが見せた勤行であった。
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