ダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯)の意味・解説 

ダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯)

(ダニエル・フィンチ_(第2代ノッティンガム伯爵) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/15 07:37 UTC 版)

第2代ノッティンガム伯ダニエル・フィンチ

第2代ノッティンガム伯および第7代ウィンチルシー伯ダニエル・フィンチ(Daniel Finch, 2nd Earl of Nottingham and 7th Earl of Winchilsea, PC, 1647年7月2日 - 1730年1月1日)は、イギリスの貴族・政治家。初代ノッティンガム伯ヘンエッジ・フィンチとダニエル・ハーヴェイの娘エリザベスの息子。

生涯

1647年、ロンドンで誕生。1658年からインナー・テンプルウェストミンスター・スクールで3年間学習し、1662年オックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1665年から1668年にかけてグランドツアーに参加、ドイツイタリアフランスを訪れ、イングランド帰国後の1668年に王立協会フェローに選ばれた[1]

1673年ウィルトシャーのグレート・ベッドウィンで下院議員に選出、1679年スタッフォードシャーリッチフィールドに立候補、1681年から1684年まで海軍卿を務め(その後チャールズ2世が就任)、1685年ジェームズ2世が即位すると忠誠を誓ったが政権から遠ざけられた。1688年名誉革命が起こると和睦の使者としてハリファックス侯ジョージ・サヴィル・ゴドルフィン男爵シドニー・ゴドルフィンと共にオランダ総督ウィレム3世と交渉に向かい、ロンドン帰還後はロチェスター伯ローレンス・ハイドらが発足した暫定政権に加わりウィレム3世到着まで治安維持に尽くした。

1689年にウィリアム3世・メアリー2世夫妻が即位すると北部担当国務大臣に任命され政権の一員となった。同年にウィリアム3世にケンジントン宮殿を売却、翌1690年南部担当国務大臣に転任してからは顧問の1人として重用され、1692年に北部も担当することになり海軍提督エドワード・ラッセルと協力してイングランド艦隊の準備を進め、バルフルール岬とラ・オーグの海戦で勝利に貢献した。しかし、議会からは積極的攻勢に出なかったことを批判された上、ラッセルとも衝突して地位が揺らぎ、ウィリアム3世の擁護でラッセルは更迭されたが、翌1693年ラゴスの海戦でイングランド船団が壊滅すると、ラッセル復帰を求める議会と妥協したウィリアム3世に更迭された。解任後は下野してトーリー党の急進派として活動、1702年にウィリアム3世が亡くなり義妹のアンが即位すると南部担当国務大臣に再任された[2]

再任後はロチェスターと共に穏健派のゴドルフィンと対立したため1704年に辞任、1706年には枢密院から除名され下野して政府批判に回り、1711年に穏健派のロバート・ハーレーヘンリー・シンジョンが政権を奪取しても野党に留まり、スペイン継承戦争の方針を巡って対立、逆にホイッグ党と結託して和平を非難した。1711年の議会で政府の方針に対してスペイン西インド諸島ブルボン家の所有のままフランスと講和するのは危険と主張、ホイッグ党の「スペインなくして講和なし」という主張にそって1時間話し続けた。主張は下院で否決されたが、非国教徒を公職から排除する便宜的国教徒禁止法案を可決、政府への影響を保ち続けた。

1714年にアンが死去してジョージ1世が即位、ハーレー・シンジョンらトーリー党が失脚してホイッグ政権が成立した時は枢密院議長としてトーリー党員で唯一閣僚に選ばれたが、1715年に起こったジャコバイト反乱にかこつけてホイッグ党がトーリー党を弾劾・没落に追い込むと1716年に枢密院議長を更迭され政権から排除された[3]。以後は政界から引退、1729年に死去した遠縁のウィンチルシー伯ジョン・フィンチの爵位を継承、翌1730年に82歳で亡くなり長男のダニエル・フィンチがノッティンガム伯位とウィンチルシー伯位を継承した。

子女

1674年ウォリック伯ロバート・リッチの娘エセックスと結婚、娘を1人儲けた。

  1. メアリー(? - ?) - ハリファックス侯ウィリアム・サヴィルと結婚、死別後にロックスバロー公ジョン・カーと再婚。ドロシー・サヴィルの母。

1685年、ハットン子爵クリストファー・ハットンの娘アンと再婚、10人の子を儲けた。

  1. ダニエル(1689年 - 1769年) - 第3代ノッティンガム伯、第8代ウィンチルシー伯
  2. ウィリアム(1691年 - 1766年)
  3. ジョン(? - 1743年/1763年?)
  4. ヘンリー(? - ?)
  5. エドワード(1697年 - 1771年)
  6. エセックス(? - 1721年) - ロジャー・モスティンと結婚
  7. ヘンリエッタ(? - 1742年) - クリーヴランド公ウィリアム・フィッツロイと結婚
  8. メアリー(1701年 - 1761年) - ロッキンガム侯トマス・ワトソン=ウェントワースと結婚、首相チャールズ・ワトソン=ウェントワースの母。
  9. シャーロット(1711年 - 1761年) - サマセット公チャールズ・シーモアと結婚
  10. エリザベス(1723年 - 1784年) - マンスフィールド伯ウィリアム・マレーと結婚

脚注

  1. ^ "Finch; Daniel (1647 - 1730); 2nd Earl of Nottingham and 6th Earl of Winchelsea". Record (英語). The Royal Society. 2013年1月4日閲覧
  2. ^ 『イギリス革命史』P80 - P88、P110 - P111、P142 - P143、P165 - P171、P190、P198。
  3. ^ 『イギリス史2』P278 - P282、『スペイン継承戦争』P100、P192、P328 - P331、P387 - P388。

参考文献

外部リンク

公職
先代
ヘンリー・カペル
海軍卿
1681年 - 1684年
次代
チャールズ2世
先代
プレストン子爵
北部担当国務大臣
1689年 - 1690年
次代
シドニー子爵
先代
シュルーズベリー伯爵
南部担当国務大臣
1690年 - 1693年
次代
ジョン・トレンチャード
先代
シドニー子爵
北部担当国務大臣
1692年 - 1693年
次代
ジョン・トレンチャード
先代
マンチェスター伯爵
南部担当国務大臣
1702年 - 1704年
次代
チャールズ・ヘッジス
先代
バッキンガム公爵
枢密院議長
1714年 - 1716年
次代
デヴォンシャー公爵
イングランドの爵位
先代
ヘニッジ・フィンチ
ノッティンガム伯爵
1682年 - 1730年
次代
ダニエル・フィンチ
先代
ジョン・フィンチ
ウィンチルシー伯爵
1729年 - 1730年



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯)」の関連用語

ダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS