ダキア人の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 23:10 UTC 版)
「ダキア戦争 (1世紀)」の記事における「ダキア人の侵攻」の解説
85年末から86年初頭にかけて、ダキア王ドゥラス(英語版)がドナウ川下流のローマ帝国の属州モエシア属州に侵攻した。実際に遠征軍を率いたのはディウルパネウスで、次のダキア王デケバルスと同一視されることもあるが、定かではない。不意を突かれたモエシア総督オッピウス・サビヌス(英語版)と1個軍団(おそらく第5軍団アラウダエ)は殲滅された。 これを受けて、皇帝ドミティアヌスは親衛隊長官コルネリウス・フスクスと共に自らモエシアに赴き、この属州をモエシア・インフェリオルとモエシア・スペリオルに分割し、ダキアへの反攻を計画した。喪失した軍団の穴を埋め、さらに防備を固めるため、ダルマティアから第4軍団フラウィア・フェリクスが、さらに西方から第1・第2軍団アディウトリクスがモエシアに呼び寄せられた。ダキア方面の戦線での指揮を統一するため、シルミウム市はモエシア・スペリオルに編入された。 この次に起きた事態について、歴史家たちの記録は2通りに分かれている。A. Mócsyは、ドミティアヌスは軍の指揮をフスクスに任せて同年のうちにローマに帰り、フスクスはモエシアから侵入者を一掃したとしている。一方でE. T. SalmonやM. Bunsonは、ドミティアヌス自ら軍を率いてダキア人に勝利したうえで、ローマに凱旋したとしている。
※この「ダキア人の侵攻」の解説は、「ダキア戦争 (1世紀)」の解説の一部です。
「ダキア人の侵攻」を含む「ダキア戦争 (1世紀)」の記事については、「ダキア戦争 (1世紀)」の概要を参照ください。
- ダキア人の侵攻のページへのリンク