タジキスタンでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 00:21 UTC 版)
「ウルンバイ・アシューロフ」の記事における「タジキスタンでの活動」の解説
翌1935年1月3日から1936年8月20日まではタジキスタン共産党中央委第二書記、同年7月から12月までは連邦共産党中央委責任教官、翌1937年1月16日から10月4日まではタジキスタン共産党中央委第一書記を務めた。また同時に同年2月から10月まではタジク・ソビエト社会主義共和国人民委員会議議長(英語版)にも就いている。しかしその一方で7月10日からはタジク共和国NKVDトロイカ(ロシア語版)の一員として、タジキスタンにおける大粛清の引き金を引いた。 1935年2月8日からは第7期連邦最高会議民族会議(ロシア語版)の代議員でもあったが、1937年10月3日には連邦共産党中央委の決定により職から解かれ、翌4日にNKVDによって逮捕された。アシューロフは連邦最高裁軍事参議会(ロシア語版)によって死刑判決を下され、翌1938年10月20日にスタリナバードで処刑されることにより、自身が大粛清の犠牲となった。その後、アシューロフは1956年12月19日に名誉回復(ロシア語版)がなされた。
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