セルゲイ・ジャーロフとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > セルゲイ・ジャーロフの意味・解説 

セルゲイ・ジャーロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/17 01:00 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

セルゲイ・アレクセーエヴィチ・ジャーロフСерге́й Алексе́евич Жа́ров 1896年4月1日 - 1985年10月5日)は、ロシア指揮者作曲家ドン・コサック合唱団セルゲイ・ジャーロフを結成し、合唱団で指揮と作曲も務めた。

若齢期

ジャーロフは1896年4月1日、ロシア、コストロマ州マカリエフで生まれた。彼はモスクワ・シノド・スクールで合唱を学んだ。

軍歴

セルゲイ・ジャーロフはロシア内戦においてドン・コサック軍の副官であった。1920年、ドン軍は赤軍によってクリミアへ追い込まれた。彼らはそこからトルコのチリンギル捕虜収容所(コンスタンチノープル、現在のイスタンブールの近く)へと避難した。1921年1月、ジャーロフはキャンプにいたロシア人難民を集め、合唱団を結成する。ドン・コサック合唱団の一員としてのちに歌うこととなったメンバーのほとんどは、1914年の戦争以来のドン軍のメンバーであった。ドン軍の第3部隊は1921年の3月、ギリシャリムノス島に抑留された。

ドン・コサック合唱団

ドン・コサック合唱団は元ロシア帝国軍人による合唱団であり、クリミアでの部隊の敗北後に逃れたイスタンブール近くのチリンギルで歌っているところを見出された。1923年7月4日、彼らはウィーンで正式な場でのデビューを果たした。合唱団は1930年代から50年代にかけてアメリカで人気を得た。コサックの衣装をまとった男性合唱団がロシアの聖歌やオペラ曲、軍歌、民謡などをアカペラで歌った。コサックダンスも後に彼らの演目に加えられている。

後半生

彼の参加したツアーは1978年から1979年にかけて行われたものが最後だったが、彼はその後も1981年まで合唱団のリーダーを務めた。1981年の3月20日、ジャーロフは合唱団の全権利を彼の友人でマネージャーでもあったオットー・ヘフナーに渡した。さらに2001年、オットー・ヘフナーはこの権利をヴァーニャ・リブカに渡している。

私生活

ジャーロフはネオニラと結婚し、アレクセイという息子をもうけた。彼らはニュージャージー州レイクウッド・タウンシップで暮らし、ジャーロフはそこで1985年に亡くなった。彼は第二次大戦後、アメリカの市民権を得ており、遺体はニュージャージー州ジャクソンのセントメアリーズR.O.墓地に埋葬された。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「セルゲイ・ジャーロフ」の関連用語

セルゲイ・ジャーロフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



セルゲイ・ジャーロフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのセルゲイ・ジャーロフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS