セケンエンラータアとは? わかりやすく解説

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セケンエンラー・タア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/13 06:53 UTC 版)

セケンエンラー・タア(タア2世)
Seqenenre Tao (Tao II)
セケンエンラー・タアの衣
古代エジプト ファラオ
統治期間 紀元前1591年頃 - 紀元前1574年頃
または紀元前1559年頃 - 紀元前1555年頃,エジプト第17王朝
前王 セナクトエンラー
次王 カーメス
配偶者 イアフヘテプ1世
スィトジェフティ
子息 カーメス?
イアフメス1世
子女 イアフメス=ネフェルタリ
イアフメス=ネブタ
アハメス
セナクトエンラー
テティシェリ
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セケンエンラー・タア(Seqenenre Tao, 在位:紀元前1591年頃 - 1574年頃または前1559年頃 - 1555年頃)は、古代エジプト第17王朝の8番目あるいは13番目のファラオ(王)。しばしばセケンエンラー2世、タア2世とも呼ばれる。

概要

先代の王セナクトエンラー・イアフメスとその王妃テティシェリの息子だったと思われる[1]。王妃かつ姉妹であるイアフヘテプ1世との間に第18王朝初代の王イアフメス1世がいる。

当時のエジプトは異民族の連合体であるヒクソスの支配下にあり、第17王朝をはじめとする土着のエジプト人の政権は、アヴァリスを中心に下エジプトを治める第15王朝に臣従していた。第19王朝時代に成立した『アポフィスとセケンエンラーの争い』という説話によれば、第15王朝のアペピ(アポフィス)王は「テーベ神殿で飼われているカバの鳴き声が煩くて王の眠りを妨げるので殺すように」という殆ど言いがかりのような要請を送っている[2]。対してセケンエンラー・タアは使者を親しく迎え入れ、アペピへの二心無きことを示す様子が書かれている。

この伝承が実話かどうかは明らかでないものの、セケンエンラーも当初は記述通りヒクソスへの臣従に徹したと見られる。 しかしその一方で、この命令は単にテーベ勢力を牽制するためではなく、セケンエンラーを陥れる策略であったとも解釈できる。カバは豊穣や多産の象徴とされる一方で、その凶暴性や怒り狂った際の破壊力から厄災の象徴ともされた。そして、それを狩って民衆の脅威を取り除く事がファラオの重要な責務の一つとされていた。しかし、ファラオにしか許されない儀式をセケンエンラーが行う事は即ちアヴァリス王権への反逆行為となるため、それを口実に攻撃を仕掛けてくる事もあり得た。しかし、主従関係にある以上宗主国からの指示は絶対であり、これを反故にする事もまた反逆行為となる。したがってセケンエンラーは命令を受け入れる事も拒む事も叶わず、嫌が応にもヒクソスとの戦いに踏み切らざるを得ない状況に持ち込まれたと考えられる。

セケンエンラー・タアのミイラ

実際、セケンエンラー・タアは最終的にヒクソスの権威に反旗を翻し、戦いを挑むようになった。デル・エル・バラスに築かれた第17王朝後期の宮殿は巨大な周壁に囲まれ、近くの山腹からは軍事基地の跡が発掘されている。また、1881年にデイル・エル・バハリの竪穴から発見された王のミイラの頭部には武器によってつけられた複数の裂傷があり、彼が暴力的な最期を遂げたことを示している[2]。傷の殆どが水平に付つけられているのに対し、身体には目立った外傷が無い事から、研究者はセケンエンラー・タアが眠っていた所を襲われたか、戦闘で打ち倒された上で止めを刺された、あるいは敵に囚われた後に処刑されたものと推測している。

ミイラ

セケンエンラーのミイラは歴代の王のミイラの中でも特に保存状態が悪い。そのため急いで防腐処理が施されたか、遺体の回収が遅れて腐敗が始まっていたと思われる。

1960年代後半に行われたX線写真では、当時の一般的な防腐処理方法である脳の摘出や眼窩への詰め物が一切行われていなかったことが判明している。撮影当時に法医学鑑定を行ったジェームズ・E・ハリスとケント・ウィークスの見解では、彼のミイラはエジプト博物館に収蔵されているすべての王家のミイラの中で最も保存状態が悪いとされ、「彼の遺体が展示されていたケースを開けた瞬間、不快な油臭が部屋中に充満した」と記されている。これはナトロン塩による防腐処理が不十分でミイラに体液が残っていたためと考えられる。

2021年2月17日、エジプト観光・考古省は最新の研究結果を発表し、死因は処刑だったことを突き止めたと発表した。その証拠として「(ミイラは)手が変形しており、セケンエンラー・タアが戦場で捕らえられた可能性」を指摘し、「後ろ手に縛られて」いて頭部への「激しい攻撃を防ぐことができなかった」との見方を示している。また、CTスキャンでは「これまでの調査では見つかっていなかった傷」が見つかり、これらの傷がエジプト考古学博物館に収蔵されているヒクソスの短剣、おの、やりといった武器と照合した。以上の事から、セケンエンラー・タアは戦場で捕虜となり、その後「処刑式」で殺害されたと結論づけた[3]。そして骨のスキャンの結果、セケンエンラー・タアの死亡時の年齢が40歳前後だったことも明らかになった。

イアフメスはまだ幼かったため、セケンエンラー・タアの兄弟とみられるカーメスが王位を継いだ[4]

脚注

出典

参考文献

  • ピーター・クレイトン『古代エジプトファラオ歴代誌』吉村作治監修、藤沢邦子訳、創元社、1999年4月。ISBN 978-4-422-21512-9 
  • エイダン・ドドソン、ディアン・ヒルトン『全系図付エジプト歴代王朝史』池田裕訳、東洋書林、2012年5月。 ISBN 978-4-88721-798-0 
  • K.S.B. Ryholt, The Political Situation in Egypt during the Second Intermediate Period, c.1800-1550 BC (Carsten Niebuhr Institute Publications, vol. 20. Copenhagen: Museum Tusculanum Press, 1997).

関連項目

先代
セナクトエンラー
古代エジプト王
前1745年頃 - 1741年頃
次代
カーメス



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