スパルタ占領とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 16:25 UTC 版)
「クレオメネス戦争」の記事における「スパルタ占領とその後」の解説
スパルタに帰国したクレオメネスは市民たちに抵抗せずにアンティゴノスに降伏するよう命じ、自らは捲土重来を期してエジプトへと亡命した。その後、スパルタに至ったアンティゴノスはスパルタとその市民を寛大に扱い、エフォロス制を復活させるなどしてスパルタをクレオメネスの改革前の状態に戻した。三日間スパルタに留まった後、マケドニアにイリリア人が侵入したとの知らせを受けたアンティゴノスは帰国し、翌年の紀元前221年に戦いで死んだ。 クレオメネスはプトレマイオス3世から厚遇を受けたが、プトレマイオス3世はクレオメネスを援助するに死んでしまった。その死後王位を継いだプトレマイオス4世はクレオメネスを白眼視し、不遜に扱った。クレオメネスたちはしばらくはそれに耐えていたが、宰相ソシビオスの讒言によって屋敷に幽閉された。宮廷におけるクレオメネスの親しい友人のクリュセルモスなる者がクレオメネスの屋敷を去りがてら番人を叱りつけた。クレオメネスはこれを自分を警戒するものと誤解した。 これによって堪忍袋の緒が切れたクレオメネスとその仲間たちは囚人を解放してプトレマイオスに対し反乱を起こそうとしたが失敗し、仲間たちと共に自害した。その後、人質だったクラテシクレイアは孫たちと共に処刑された。
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