スタシース・ロゾライティス (1898)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/28 07:55 UTC 版)
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スタシース・ロゾライティス
Stasys Lozoraitis
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生年月日 | 1898年9月5日[1] |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1983年12月24日(85歳没)[1] |
死没地 | ![]() |
配偶者 | ヴィンツェンタ・マトゥライティーテ=ロゾライティエネ |
子女 | スタシース・ロゾライティス、カジース・ロゾライティス |
親族 | モティエユス・ロゾライティス(父) |
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内閣 | 第16・17内閣(トゥーベリス首相) 第18内閣(ミロナス首相) |
在任期間 | 1934年6月12日[2] - 1938年12月5日[注釈 1] |
スタシース・ロゾライティス(Stasys Lozoraitis、1898年9月5日 - 1983年12月24日)は、リトアニアの外交官、外相(在任: 1934年 - 1938年[1])。息子は同姓同名のスタシース・ロゾライティス。
来歴
1898年9月5日、カウナスに生まれる。1918年からリトアニア内務省で勤務[1]。1923年に外務省に入省[1]。1923年から1929年まで在ベルリン・リトアニア公使館で勤務[1]。1929年末から1932年まで在バチカン・リトアニア公使館で勤務[1]。1932年9月、リトアニアに帰国。1932年から1934年まで外務省政務局長[1]。1934年から1938年までユオザス・トゥーベリス首相率いる第16・17内閣のもとで外相を務める[1]。1938年3月にリトアニア政府がポーランドからの最後通牒を受諾すると、トゥーベリス内閣は3月24日に責任をとって総辞職し、代わってヴラダス・ミロナス首相率いる第18内閣が発足した。ミロナス内閣のもとでロゾライティスは外相代行を務めることとなった[3]が、その後ロゾライティスは外相代行を辞任し、同じくミロナス首相が率いる第19内閣ではロゾライティスに代わってユオザス・ウルプシースが外相に就任した。ロゾライティスはその後、1939年2月から1940年まで駐イタリア公使を務めた[1]。
1940年、リトアニアがソビエト連邦に編入(バルト諸国占領)されると、ロゾライティスは在外リトアニア外交団 (LDT) の団長となった[1]。LDTの本拠地はローマで、ロゾライティスは1940年6月15日から1983年12月24日まで首班を務めた。
没後
彼の死後、LDT首班はスタシース・アンタナス・バチキスに引き継がれた。LDTはリトアニアが独立を回復する1991年まで存続し、それまでバチキスが首班に就いていた。
1998年、ロゾライティスの遺骸がカウナスのペトラシューナイ墓地に移された[1]。
脚注
注釈
- ^ ただし1938年3月24日から1938年11月1日までは外相代行。
出典
参考文献
- Škirpa, Kazys (1996). Lietuvos nepriklausomybės sutemos (1938–1940): Atsiminimai ir dokumentai. Chicago: Lietuvos kronika. p. 83. ISBN 9986140803(リトアニア語)
公職 | ||
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先代: ドヴァス・ザウニュス |
![]() 1934年 - 1938年 |
次代: ユオザス・ウルプシース |
公職 | ||
先代: (独立喪失) |
![]() 1940年 - 1983年 |
次代: スタシース・アンタナス・バチキス |
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