ジョン・ピーター・ラッセルとは? わかりやすく解説

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ジョン・ピーター・ラッセル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/24 07:07 UTC 版)

ジョン・ピーター・ラッセル
John Peter Russell
肖像写真(1888年頃)
生誕 (1858-06-16) 1858年6月16日
オーストラリア シドニー・ダーリングハースト
死没 1930年4月22日(1930-04-22)(71歳)
オーストラリア シドニー・ランドウィック
国籍 オーストラリア
教育 スレード美術学校、フェルナン・コルモン画塾
著名な実績 油絵水彩画
運動・動向 印象派
影響を受けた
芸術家
クロード・モネ
影響を与えた
芸術家
アンリ・マティス

ジョン・ピーター・ラッセルJohn Peter Russell1858年6月16日 - 1930年4月22日)は、オーストラリア出身の印象派画家

生涯

ジョン・ピーター・ラッセルは、1858年、シドニー東郊のダーリングハースト英語版で生まれた。父ジョン・ラッセルはスコットランド技師であり、小さい時にオーストラリアに渡り、兄の経営するエンジニア工場P・N・ラッセル社に加わった。母シャルロット・エリザベス(旧姓ニコル)はロンドン生まれの女性である。ジョン・ピーターはその4人兄弟の長子である[1]

ジョン・ピーターは、弟のパーシー(後に画家)とともにニューサウスウェールズ州のゴールバーン校に通った。18歳の時から、イングランドリンカンのエンジニア会社ロビー社で徒弟として働き、技師としての技術を身につけた。他方、子供の時から絵への興味を持ち続け、靄の中のリンカン大聖堂を水彩で描いている[1]

ジョン・ピーター・ラッセルによるフィンセント・ファン・ゴッホの肖像画(1886年、ゴッホ美術館)。

1877年、父ジョンはシドニーで業績不振であったエンジニアリングの仕事をたたんだ。そして1879年急死した。ジョン・ピーターは、自分の将来を考えなおす機会を与えられることになった。シドニーに1年間滞在した後、1881年1月5日、ロンドンスレード美術学校に入学し、3年余りフランス出身の画家アルフォンス・ルグロの下で学んだ。それからパリに出てフェルナン・コルモンの画塾に入り、1年半勉強した。コルモンの画塾でフィンセント・ファン・ゴッホと知り合い、彼の肖像画を描いている[1]。このほか、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックエミール・ベルナールらも同塾生であった。

1883年、終生の友人トム・ロバーツウィリアム・マロニー英語版とともにスペインを旅した。1887年にはシチリア島を訪れている。1888年2月8日、パリでオーギュスト・ロダンのイタリア人モデル・マリアンナ (Marianna Antoinetta Matticco) と結婚した。その年、彼はブルターニュ半島の沖にあるベル=イル=アン=メールに移り住んだ[1]

ゴッホとの交友関係は続いており、1888年パリからアルルに移ったゴッホは、ラッセルに仕事の進捗状況を知らせるために12枚の素描を送った。ゴッホ死後の1897年、アンリ・マティスは、ベル・イル島のラッセルを訪れ、印象派やゴッホの絵を紹介されて衝撃を受けた。ラッセルはこの時、マティスにゴッホの素描12枚のうち1枚を与えている。マティスは、後に「ラッセルは私の師だった。ラッセルは私に色彩の理論を教えてくれた。」と述懐している[2]

1908年、妻マリアンナが亡くなると、ベル・イル島を去ってパリに移り、娘で歌手のジャンヌとともに南仏へ向かい、一時イタリアポルトフィーノに住んだ。1912年6月17日、パリでアメリカ出身の歌手カロリーン (Caroline deWitt Merrill) と再婚した。第一次世界大戦の開戦で、5人の息子がイングランドで連合国軍に加わったのを機に、1915年、自分もイングランドへ戻った。第1次世界大戦が終わると、4番目の息子シウォードとともにニュージーランドへ移った。ここで2年間の滞在中、数々の水彩画を描いた後、シドニーのワトソン湾英語版に行き、舟からの港の風景をしばしば描いた。1930年4月22日、シドニー南東郊のランドウィック英語版で心臓発作により亡くなった。妻と、彼女との間の息子1人、そして最初の結婚で生まれた子供6人が残され、遺産を相続した[1]

作品

初期には肖像画静物画を描いていたが、次第に海や陸の風景、家庭内の光景を描くようになった。現在、彼は色彩に関する豊富な知識に基づいた色遣いで注目される。ロンドンやパリでの競争を嫌い、ベル・イル島で純粋な色彩の追求に没頭した[1]

彼の死後は、従姉妹のテア・プロクター英語版が知名度を上げようと努めたが、ほとんど世間からは忘却されてしまった。娘が彼の油彩画21点をルーヴル美術館に遺贈し、現在はパリのロダン美術館に収蔵されている。また、現在、オーストラリアの主要な美術館でも彼の作品を見ることができる[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g Galbally.
  2. ^ Hilary Spurling (2005年8月5日). “The Unknown Matisse...”. ABC Radio National. 2013年3月16日閲覧。

参考文献

関連項目




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