ジュリアンデュヴィヴィエとは? わかりやすく解説

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デュビビエ【Julien Duvivier】


ジュリアン・デュヴィヴィエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/20 06:10 UTC 版)

ジュリアン・デュヴィヴィエ
Julien Duvivier
1932年
生年月日 (1896-10-03) 1896年10月3日
没年月日 (1967-10-30) 1967年10月30日(71歳没)
出生地 フランス共和国 ノール県リール
死没地 フランス パリ
職業 映画監督脚本家俳優
ジャンル 演劇映画
活動期間 1919年 - 1967年
主な作品
地の果てを行く』(1935年)
パニック』 (1946年)
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ジュリアン・デュヴィヴィエ

ジュリアン・デュヴィヴィエJulien Duvivier, 1896年10月3日 - 1967年10月30日)は、フランス映画監督脚本家俳優

来歴

ノール県リールに生まれる。

パリで舞台俳優として活躍していたが、舞台助監督から舞台監督となり、1919年に映画監督としてデビュー。しばらくヒットに恵まれなかったが、1930年代から数々の名作を作り上げた。

彼は古典フランス映画のビッグ5の1人である。他の4人は、ジャック・フェデージャン・ルノワールルネ・クレールマルセル・カルネである。

第二次世界大戦中は、アメリカ合衆国に亡命。しかし、あまりハリウッドとは水に合わず、戦後再びフランスに戻り作品を撮り続けた。

1967年10月30日、パリ市内で自動車を運転中に心臓発作を起こし昏倒し、他の車に衝突し、そのはずみで街路樹に激突する事故を起こして死去した。満71歳没。なお、衝突された車にはモーリス・シューマンが乗っていたが、モーリスに怪我は無かった。

人物

  • 日本では彼の作品が戦前から異常なほど人気があり、映画史研究家ジョルジュ・サドゥールによれば、「この監督は、東洋の一小国だけにおいて、熱烈な観客がいる」と言わしめているほどであった。現在では、フランス本国においても正当な評価を受けている。
  • 1959年6月8日から13日にかけて、第2回フランス映画祭が東京都の読売ホールで開催された。デュヴィヴィエはミレーヌ・ドモンジョとともに映画祭に参加するため来日した。映画祭ではデュヴィヴィエの『陽気なドン・カミロ』が上映作品のなかに含まれていた[1][2]

主な監督作品

にんじん』(1932年)
『ゴルゴダの丘』(1935年)

脚注

  1. ^ キネマ旬報』1959年7月夏の特別号。
  2. ^ 映画評論』1959年7月号。
  3. ^ デュヴィヴィエは1925年にも「にんじん」の映画化を手がけており(fr:Poil de carotte (film, 1925))、本作は2度目の映画化となる。
  4. ^ エミール・ゾラの『ルーゴン・マッカール叢書」の一つ『ごった煮』の映画化。

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