ジャンボ鶴田引退~死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:43 UTC 版)
1999年2月にジャンボ鶴田が引退し、翌年死去した。藤波はかねてから「ジャンボ鶴田選手と1回戦ってみたかった」と公言している。かつて、ジャイアント馬場と猪木の対戦が望まれた時期、猪木は何度も馬場に対戦を望んだが、馬場は「僕達の旬は過ぎているから」と拒否し、代わりにお互いの団体の次期エースである鶴田と藤波の対戦を申し出たり、当時全日本プロレスに参加権があって新日本プロレスには認められていなかったNWA世界ヘビー級のベルトの挑戦権を藤波に与えてもいい、などと発言したこともあった。だが、猪木は馬場との対戦に拘り続け、そして鶴田の死去もあり、ついに藤波は鶴田と対戦することはできなかった。
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