ジャンヌ・ダルクとフランスの反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 22:23 UTC 版)
「シャルル7世 (フランス王)」の記事における「ジャンヌ・ダルクとフランスの反撃」の解説
一方、イングランドはブルゴーニュ派と再び提携して、1428年10月にはアルマニャック派の拠点であったオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。ここを落とせばフランス南部へ一気に侵攻できるはずであったが、1429年5月にジャンヌ・ダルクの活躍によってイングランド軍はオルレアンの包囲を解いて撤退せざるを得なくなった。そして6月にパテーの戦いでジャンヌらフランス軍はイングランド軍に連勝、7月17日、シャルル7世はランスへ赴き、ノートルダム大聖堂で正式にフランス王として戴冠式を挙行した。 その後ジャンヌは、1430年5月のコンピエーニュ包囲戦で捕虜となり、翌1431年5月30日に火刑に処された。しかし1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派と和解した後、シャルル7世率いるフランス軍は着実に勢力を伸ばし、フランス王国大元帥(英語版)アルテュール・ド・リッシュモンの下で軍制改革を推進、1440年に反対した貴族の反乱(プラグリーの乱)を鎮圧、1449年にはイングランドからルーアンを奪回し、1450年にはフォルミニーの戦いでイングランド軍を破ってノルマンディーを奪回した。そして1453年のカスティヨンの戦いでギュイエンヌを奪回することで、フランスにおけるイングランド領の大半を奪取すると共に、百年戦争に終止符を打ったのであった。
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