シーダークリークおよび死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 03:36 UTC 版)
「ドッドソン・ラムスール」の記事における「シーダークリークおよび死」の解説
1ヶ月後の10月19日、アーリーはシーダークリークの戦いで急襲を敢行して北軍の3分の2を壊走させたが、その軍隊は飢えて疲れ切っていたので隊を乱して北軍宿営所の略奪にかかってしまった。ラムスールはなんとかその師団の兵士達数百名を集めて、シェリダンが反撃して来たときに南軍前線の中央に立ちはだかった。この部隊は1時間半以上も北軍の猛攻に耐えた。ラムスールは自隊の鼓舞に大きな勇敢さを示していたが、自身はこれみよがしに乗馬して間断ない銃火を引き付けていた。ラムスールは腕を負傷し、乗っていた馬も撃たれた。2頭目の馬も殺された。3頭目に跨っているときに両肺を撃たれて落馬し、後に北軍兵に捕まった。 ラムスールは翌日、バージニア州ミードウミルズ近く、ベルグラブ邸宅にあったシェリダンの作戦本部で死んだ。最後の言葉は「私の大事な妻に伝言してくれ。私はキリスト教徒として死に、天国で彼女に会えると望んでいる」だった。戦闘の前日にラムスールの最初の娘が生まれたという報せが入っていた。ラムスールは生まれ故郷のリンカーントンに近いセントルークス聖公会墓地に埋葬されている。 シーダークリークでのラムスールに関するジュバル・アーリーの証言はラムスールの人となりとその功績を要約している。 ラムスール少将は致命傷を負って敵の手に渡った。それは私の軍だけでなくこの国にとっても大きな損失だ。彼は如何なる惨事にも驚かないような最も勇気ある活動的な士官だったが、その勇気と活力は混乱と無秩序の中にあって新しい力を得たように見えた。彼は窮地に追い込まれたライオンのようにその持ち場で戦って倒れ、その生まれた州は彼の記憶を誇るだけの理由がある。 — ジュバル・アーリー、シーダークリークの公式報告書
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