シュテディンゲン村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 04:57 UTC 版)
「シュテディンガー十字軍」の記事における「シュテディンゲン村」の解説
シュテディンゲンの住民は、もともとヴェーザー川とフンテ川の間の地域、ブレーメンの対岸に住んでいた農民が、フンテ川の北側にも住み着いた者たちであった。沼や湿地の広がるこの地域は、12世紀初頭に初めて開拓され、人が住むようになった。この土地がシュテディンゲン、ラテン語でテッラ・ステディンゴールムと呼ばれるのに対し、その住民はシュテディンガー(Stedinger)、ラテン語でステディンゲ(Stedinge)と呼ばれた。テッラ・ステディンゴールムとは「シュテディンガーの地」という意味である。これらの語源は、ドイツ語で沿岸あるいは岸辺を意味するゲスターデ(Gestade)である。ただ12世紀前半頃は、シュテディンガーらはホランディ(Hollandi)すなわちホラント人、あるいは単にルスティチ(rustici、「農民」の意)と呼ばれていた。後に領主との関係が悪化してからは、ベスティエ(bestie)すなわち獣たち、とも呼ばれた。 法律上は、シュテディンゲンの住民の大部分はブレーメン大司教領の属民で、そのミニステリアーレにより統治されていた。一部にはフンテ川の北側のオルデンブルク伯の属民だった者もいた。シュテディンゲンの住民は、1106年の時点ですでにブレーメン大司教フリードリヒ1世から、自由土地保有権や教会建設権、一部納税免除などの特権を認められていた。こうした特権はまとめてイウス・ホランディクム(ius hollandicum、「ホラント人の権利」)と呼ばれた。13世紀前半には、シュテディンゲン住民はウニヴェルシタス・ステディンゴールム(universitas Stedingorum、「シュテディンガー組合」の意)と呼ばれる明確な共同体を組織するようになっていた。
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