シャリエの処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 05:55 UTC 版)
しかしシャリエは、革命政府に反対する街の王党派たちによって投獄されてしまう。さらに、王党派は手紙を偽造してシャリエの罪をでっち上げ、他のシャリエ派やパリへの見せしめとして、彼に死刑を宣告したのである。国民公会はあわててシャリエを救おうとしたが、既に遅かった。さらにリヨンに対して何度も警告・勧告を行ったが、リヨンはますますパリの急進主義者達への対決色を色濃くした。 国民公会が脅しとしてギロチンを送りつけると、リヨンでは逆にそのギロチンを使ってシャリエを処刑することを決定し、7月17日に執行された。しかし、ギロチンの扱い方になれないリヨンの処刑人リペールは、ギロチンの刃を3度落としてもシャリエの首を切断することができず、最後は斧(ナイフとする文献もある)を使ってようやく首を落とした。この光景には、シャリエ派のみならず、反革命派の民衆もショックをうけた。
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