シェアボーン司教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 08:24 UTC 版)
887年から892年の間のある時、アルフレッドはアッサーにエクセターの修道院を与えた。これに次いで、アッサーはシェアボーン司教となった。彼がこの地位についた正確な年は不明である。前任者のWulfsigeは、890年から896年の間に調印された憲章の連署者として知られている。最初に彼がシェアボーン司教として言及されるのは900年のことで、彼は憲章に署名した一人として登場する。そのため、彼が司教位を継いだのは890年代に限られるという考え方もある。どちらにせよ、この憲章署名以前にアッサーがシェアボーン司教位に着いていたことは、Wulfsigeが受け取ったアルフレッドの司牧規定書の写しにおいてアッサーが司教として記されていたことからも確実である。 アッサーがシェアボーンの属司教だった可能性もあるが、もしそうであればアッサーはセント・デイビッズの司教でもあった。彼はウェールズのゲラルドによる『カンブリアの旅程案内』(Itinerarium Cambriae)に名が載っているが、この文献は3世紀も後の1191年に編纂されたものなので信憑性は低い。同時代の記録としてはやはりアッサー自身の記述に頼らざるを得ない。彼によれば、セント・デイビッズ司教は度々ヘヴァイズ王に追放されていたとしたうえで、「彼は私ですら度々追放した」と述べている。このことからも、アッサーがセント・デイビッズ司教の位にあったことがうかがえる。
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