ザナボブ (競走馬)
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ザナボブ | |
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ルイ=ジャン・デルトン撮影
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現役期間 | 1852年~1855年 |
欧字表記 | The Nabob |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 青毛 |
生誕 | 1849年 |
死没 | 1874年 |
父 | The Nob |
母 | Hester |
母の父 | Camel |
生国 | イギリス |
生産者 | ジョナサン・ピール大佐 |
生産牧場 | ハンプトンコート牧場 |
馬主 | 第3代リブルズデール男爵 →J・S・ドリンカルド →ハワード氏 →第2代アングルシー侯爵 |
競走成績 | |
生涯成績 | 26戦6勝[注 1] |
勝ち鞍 | チェスターフィールドカップ (1853) |
ザナボブ[注 2](英語: The Nabob[注 2]、1849年 - 1874年)は、イギリスで生産および調教されたサラブレッドの競走馬。競走馬としては1853年のチェスターフィールドカップに優勝したほか、スチュワーズカップ・イボアハンデキャップ・ロシア皇太子ハンデキャップ・ケンブリッジシャーハンデキャップで2着に入った。引退後種牡馬となってすぐにフランスへ輸出されたが、そこでパリ大賞馬ヴェルムートやボワルセルとスズランの2頭のフランスダービー馬を出す成功を収めた。
生涯
ザナボブは1849年にイギリスのハンプトンコート牧場でジョナサン・ピール大佐[注 3]によって生産された(当時まだ王立牧場は設立されていなかった)[4][5]。 父はザノブ、母はヘスター (Hester) 、母の父キャメルという血統の青毛[注 2]の牡馬である[4][6]。
ポニーのように小柄だった父ザノブとは対象的にザナボブはサラブレッドとしては最大級の大型馬で、長い脚に美しい馬体とアラブ種に似た頭を持っていた[6]。体高は1メートル62センチになったが、成熟には5歳までかかった[4]。
競走馬時代
1851年にピールの所有馬がすべて第3代リブルズデール男爵に売却されたため、1852年に3歳でデビューしたときに騎手は彼の服色を着用していた。この年はニューマーケット競馬場で3勝を挙げた[3]。
翌1853年はジョン・ショウ・ドリンカルド[注 4]の持ち馬として走った[4][9]。チェスターフィールドカップ (Chesterfield Cup) ではオーギュスト・リュパン所有のフランス二冠牝馬ジュヴァンス[注 5]を破って優勝した[4]。またスチュワーズカップ・グレートイボアハンデキャップ(現イボアハンデキャップ)・ロシア皇太子ステークス(現ロシア皇太子ハンデキャップ)・ケンブリッジシャーステークス(現ケンブリッジシャーハンデキャップ)で2着に入った[6]。
5歳時はハワード氏[注 6]に転売されたが、1854年に出走したのはアスコットゴールドカップの1戦だけで、ここでは4000メートルを4分27秒で走破した三冠馬ウェストオーストラリアンに敗れた[4][10]。
1855年は更に馬主が替わり、第2代アングルシー侯爵の所有馬となった[11][10]。彼のもとでは運に恵まれず、グレートノーサンプトンシャーステークス (Great Northamptonshire Stakes) の競走中に転倒して競走中止になっている[11][10]。この年を最後に競走馬を引退し、種牡馬入りした。
種牡馬時代

1856年と1857年はサセックス州で種牡馬として供用された[12][13]。このときの産駒から1860年のアスコットゴールドカップに勝つルピーが出た。
1857年の年末にアルチュール・ド・シークラー男爵がザナボブを3万フランで購買し、フランスへ輸入した[3][12][13]。1866年当時はパリ近郊のシュヴィイに繋養され、種付料は500フランだった[3]。
代表産駒に、アンリ・デラマール(Henri Delamarre)が所有した1861年生まれのボワルセルとヴェルムートの2頭や、シークラー男爵にジョッケクルブ賞(仏ダービー)初勝利をもたらした1865年生まれのスズランがいる[1]。

ボワルセルは1864年のランペルール賞[注 7]とプール・デ・プロデュイ[注 8]に加えてジョッケクルブ賞にも優勝したが、同年のパリ大賞で故障し引退した。種牡馬としては、1869年のロワイヤルオーク賞(仏セントレジャー)に勝ち繁殖牝馬としても成功するクロト (Clotho) や、1868年のグランクリテリウム[注 9]優勝牝馬のマドモアゼルドフリニー (Mlle de Fligny) を出している[14]。

ヴェルメイユ賞に名を残す名繁殖牝馬ヴェルメイユとザナボブの間に生まれたヴェルムートは、1864年のパリ大賞で英ダービー馬ブレアーアソールや英仏オークス優勝のフィーユドレール (Fille de l'Air) を破る金星を挙げた[15]。種牡馬入りするとさらに大きな成功を収め、1873年のジョッケクルブ賞とパリ大賞の二冠に加えて1874年のアスコットゴールドカップも制したボイアール、1874年のグランクリテリウム[注 9]と1875年のロワイヤルオーク賞に勝ち種牡馬としても成功したペルプレクセ (Perplexe)、1876年のオークスステークス(英オークス)に同着優勝するエンギュランド、1877年のディアヌ賞(仏オークス)勝ち馬ラジョンシェール (La Jonchère) らの父となった[16]。

スズランはアスコットゴールドカップ勝ち馬ルピーの全弟として生まれた。1868年のランペルール賞[注 7]とジョッケクルブ賞に優勝し、パリ大賞でもジアール[注 10]の2着になった[17]。故障により引退したが、種牡馬としては成功できなかった。
ザナボブは1874年にマンシュ県マルタンヴァにあったシークラー男爵の牧場で死んだ[18]。
プール・デ・プロデュイ (Poules des Produits) と称するジョッケクルブ賞(仏ダービー)の前哨戦を整備していたフランス馬種改良奨励協会 (Société d'Encouragement) は、1878年に第4のプール・デ・プロデュイとしてザナボブの名を冠した「ナボブ賞 (Prix du Nabob)」を創設した[1]。ナボブ賞は1896年にアルフレド・ド・ノアイユ伯爵を記念してノアイユ賞に改名されて現在に至っている[1]。
競走成績
以下の成績はレーシングカレンダーによる。
競走日 | 競馬場 | 競走名 | 距離 | 頭数 | 着順 | 騎手 | 負担重量 | 1着馬(2着馬) | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1852年4月13日 | ニューマーケット | リドルスワースS | 7fur201yds | 3 | 1着 | Flatman | 8st7lbs | (Weathergage) | [19] |
4月16日 | ニューマーケット | Sweepstakes | 7fur201yds | 3 | 1着 | Flatman | 8st7lbs | (Sackbut) | [20] |
4月26日 | ニューマーケット | マッチレース | 5fur140yds | 2 | 1着 | Flatman | 8st7lbs | (Hugo) | [21] |
5月26日 | エプソム | 英ダービー | 1mi+1⁄2 | 27 | 着外 | Pettit | 8st7lbs | Daniel O'Rourke | [22] |
7月6日 | ニューマーケット | Handicap Sweepstakes | 5fur136yds | 4 | 3着 | Flatman | 8st7lbs | Flirt | [23] |
7月27日 | グッドウッド | グラトウィックS | 1mi+1⁄2 | 7 | 3着 | Rogers | 8st10lbs | Longbow | [24] |
7月29日 | グッドウッド | ベンティンクメモリアルS | 1mi+1⁄2 | 3 | 2着 | Rogers | 8st7lbs | Harbinger | [25] |
9月30日 | ニューマーケット | マッチレース | 5fur140yds | 2 | 2着 | Rogers | 8st7lbs | Glenluce | [26] |
10月15日 | ニューマーケット | マッチレース | 7fur201yds | 2 | 取消[注 11] | 8st3lbs | Stockwell | [28] | |
1853年4月7日 | エプソム | レールウェイプレート | 3⁄4mi | 10 | 着外 | A. Day | 8st5lbs | Narcissus | [29] |
5月24日 | エプソム | マナープレート | 1mi | 9 | 着外 | A. Day | 7st13lbs | Calot | [30] |
7月27日 | グッドウッド | スチュワーズC | 3⁄4mi | 29 | 2着 | Aldcroft | 7st13lbs | Longbow | [31] |
7月29日 | グッドウッド | チェスターフィールドC | 1mi+1⁄4 | 12 | 1着 | Aldcroft | 7st3lbs | (Cat's-paw) | [32] |
8月18日 | ヨーク | イボアH | 2mi | 13 | 2着 | Charlton | 7st1lbs | Pantomime | [33] |
9月29日 | ニューマーケット | トライエニアルS | 2mi119yds | 3 | 1着 | A. Day | 8st7lbs | (Adine) | [34] |
10月11日 | ニューマーケット | ロシア皇太子S | 2mi2fur28yds | 31 | 2着 | A. Day | 8st | Haco | [35] |
10月25日 | ニューマーケット | ケンブリッジシャーS | 2mi240yds | 39 | 2着 | A. Day | 8st2lbs | Little David | [36] |
1854年6月15日 | アスコット | アスコット金杯 | 約 2mi+1⁄2 | 7 | 着外[注 12] | Wells | 9st | West Australian | [37] |
1855年3月15日 | ソールズベリー | トライアルS | 1mi | 2 | 1着 | H. Goater | 9st3lbs | (Kingstown) | [38] |
3月27日 | ノーサンプトン | 大ノーサンプトンシャーS | 2mi | 16 | 中止 | A. Day | 8st5lbs | Hungerford | [39] |
5月2日 | チェスター | トレードマンズS | 約 2mi+1⁄4 | 27 | 着外 | A. Day | 8st2lbs | Scythian | [40] |
5月4日 | チェスター | チェシャーS | 約1mi3fur | 5 | 3着 | A. Day | 8st8lbs | Typee | [41] |
5月23日 | エプソム | エプソムC | 1mi+1⁄2 | 4 | 2着 | H. Goater | 9st | Rataplan | [42] |
6月5日 | アスコット | ロイヤルハントC | 1mi | 24 | 着外 | W. Day | 9st | Chalice | [43] |
10月23日 | ニューマーケット | ケンブリッジシャーS | 2mi240yds | 22 | 着外 | H. Goater | 8st6lbs | Sultan | [44] |
11月15日 | シュルーズベリー | コラムハンデS | 約 1mi+1⁄4 | 22 | 着外 | J. Goater | 7st10lbs | Lord Alfred | [45] |
血統表
The Nabobの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ヘロド系 |
[§ 2] | ||
父
The Nob |
父の父
Glaucus |
Partisan | Walton | |
Parasol | ||||
Nanine | Selim | |||
Bizarre | ||||
父の母
Octave |
Emilius | Orville | ||
Emily | ||||
Whizgig | Rubens | |||
Penelope | ||||
母
Hester |
Camel | Whalebone | Waxy | |
Penelope | ||||
Selim Mare | Selim | |||
Maiden | ||||
母の母
Monimia |
Muley | Orville | ||
Eleanor | ||||
Precipitate Mare | Precipitate | |||
Woodpecker Mare | ||||
母系(F-No.) | 12号族(FN:12-c) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Selim: S4×M4, Orville: S4×M4, Penelope: S4×M4, Sir Peter: S5×M5, Pot 8 o's: S5×M5, Prunella: S5×S5×M5, Buzzard: S5×S5×M5, Alexander Mare: S5×S5×M5 | [§ 4] | ||
出典 |
脚注
注釈
- ^ フランスギャロのノアイユ賞のウェブページによる[1]。サラブレッドヘリテイジのヴェルムートの項目では26戦7勝としている[2]。
- ^ a b c 種牡馬時代の大部分を過ごしたフランスの資料[3][4][5][6]や現在のインターネット上のデータベースでは、馬名は“The Nabob”、毛色は青毛(英語: black、フランス語: noir)となっている。一方で現役時代のレーシングカレンダーでは、馬名が定冠詞のない“Nabob”になっていたり、毛色も brown(青鹿毛と訳されることが多い)と記録されているものもある。
- ^ 階級は当時(最終階級は陸軍中将)。首相ロバート・ピール準男爵の叔父で、自身も2度陸軍大臣を務めた。馬主としては1844年にオーランドで第65回ダービーステークスを制している。
- ^ John Shaw Drinkald (1809-1858)[7]。ザナボブ以外にはセントローレンス(St Lawrence、チェスターカップ)、ヴォロヴァン(Vol au Vent、ニューマーケットハンデキャップ)、ザウィドウ(The Widow、ケンブリッジシャーハンデキャップ)を所有したほか、ブラックトミー (Black Tommy) が1857年の英ダービーで2着に入っている[8]。
- ^ Jouvence。スティング (Sting) の牝駒、1850年産。1853年のジョッケクルブ賞(仏ダービー)とディアヌ賞(仏オークス)の二冠に加えて同年のグッドウッドカップにも勝利していた。チェスターフィールドカップでは4着に終わった。
- ^ Mr. Howard。弁護士ヘンリー・パドウィックの馬主名義。ヴィラーゴで英1000ギニーに勝ち、ジョン・ガリーと共同所有のアンドーヴァーで1854年の英ダービーを制した。
- ^ a b 後のリュパン賞。
- ^ ボワルセルが勝利したのは後のダリュー賞に相当する競走。
- ^ a b 2003年にジャンリュックラガルデール賞に改名された。
- ^ The Earl。ヤングメルボルンの牡駒、1865年産。ヴィクトリア女王の生産馬で、2歳時にジムクラックステークスを、3歳時はパリ大賞の他にアスコットダービー(現キングエドワード7世ステークス)やセントジェームズパレスステークスに勝った。
- ^ レーシングカレンダーにはザナボブ側が賭け金を半額払って出走を取り消したと記録されているが、山野浩一は『伝説の名馬 Part III』でマッチレースが実施されてストックウェルが楽勝したと記している[27]。
- ^ レーシングカレンダーには5位入線で着外と記録されているが、フランスギャロのノアイユ賞のウェブページではウェストオーストラリアンに2着したとしている[1]。
出典
- ^ a b c d e “Prix Noailles History: The ancient road to the French Derby” (英語). france-galop.com. France Galop (2022年4月18日). 2025年3月23日閲覧。
- ^ Erigero, Patricia. “Vermout” (英語). tbheritage.com. 2025年3月23日閲覧。
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- ^ "Drinkald, John Shaw. (DRNT827JS)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ "DEATH OF MR. J. S. DRINKALD". Bell's Life in Sydney and Sporting Reviewer (英語). 1858年10月16日. オーストラリア国立図書館より2025年3月23日閲覧。
- ^ Cavailhon 1889, pp. 235–236.
- ^ a b c Cavailhon 1889, p. 236.
- ^ a b Pearson 1872, pp. 431–432.
- ^ a b Pearson 1872, p. 432.
- ^ a b Cavailhon 1889, p. 237.
- ^ Cavailhon 1889, pp. 237–238.
- ^ Cavailhon 1889, pp. 238–239.
- ^ Cavailhon 1889, pp. 240–244.
- ^ Cavailhon 1889, pp. 244–245.
- ^ "Nouvelles françaises". Le Derby (フランス語). 1874年3月14日. フランス国立図書館より2025年3月23日閲覧。
- ^ Johnson 1853, p. 28.
- ^ Johnson 1853, p. 31.
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- ^ Johnson 1853, p. 78.
- ^ Johnson 1853, p. 139.
- ^ Johnson 1853, p. 166.
- ^ Johnson 1853, p. 172.
- ^ Johnson 1853, p. 275.
- ^ 山野浩一「ストックウェル」『伝説の名馬』 3巻、中央競馬ピーアール・センター、1996年、14頁。 ISBN 9784924426498。
- ^ Johnson 1853, p. 309.
- ^ Weatherby & Weatherby 1853, p. 32.
- ^ Weatherby & Weatherby 1853, p. 87.
- ^ Weatherby & Weatherby 1853, p. 171.
- ^ Weatherby & Weatherby 1853, p. 177.
- ^ Weatherby & Weatherby 1853, p. 208.
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- ^ Johnson 1856, p. 392.
- ^ a b c “5代血統表|血統情報|The Nabob(GB)”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2025年3月23日閲覧。
- ^ a b c “The Nabobの血統表 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 株式会社ネットドリーマーズ. 2025年3月23日閲覧。
参考文献
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- Weatherby, Charles; Weatherby, James (1853). The Racing Calendar for the year 1853 (英語). Vol. 81. Reynell and Weight. Google ブックスより2025年3月23日閲覧。
- Johnson, R (1855). The Racing Calendar for 1854 (英語). Vol. 34. The Racing Calendar and Turf Register Office. Google ブックスより2025年3月23日閲覧。
- Johnson, R (1856). The Racing Calendar for 1855 (英語). Vol. 35. The Racing Calendar and Turf Register Office. Google ブックスより2025年3月23日閲覧。
- Houël, Éphrem [in フランス語] (1866). "The-Nabob.". Les chevaux de pur sang en France et en Angleterre (フランス語). Vol. 2. Paris: Madame Bouchard-Huzard. p. 134. フランス国立図書館より2025年3月23日閲覧。
- Pearson, Ned (1872). "NABOB (The).". Dictionnaire du sport français (フランス語). Paris: O. Lorenz. pp. 431–432. フランス国立図書館より2025年3月23日閲覧。
- Cavailhon, Édouard (1889). "LE SANG DE THE NABOB". Les haras de France (フランス語). Vol. 2. Pairs: Sussel. pp. 235–245. フランス国立図書館より2025年3月23日閲覧。
- Halbronn, Chéri R. (1904). "THE NABOB 12.". Les étalons de France au XIXe siècle (フランス語). Paris: Maulde, Doumenc et Cie. p. 111. フランス国立図書館より2025年3月23日閲覧。
外部リンク
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