グレッグ・ムーアとは? わかりやすく解説

グレッグ・ムーア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 09:02 UTC 版)

グレッグ・ムーア
基本情報
国籍 カナダ
生年月日 (1975-04-22) 1975年4月22日
出身地 カナダブリティッシュコロンビア州メイプルリッジ
死没日 1999年10月31日(1999-10-31)(24歳)
死没地 カリフォルニア・スピードウェイ
アメリカ合衆国カリフォルニア州フォンタナ
グレッグ・ムーア

グレッグ・ムーア (Greg Moore, 1975年4月22日 - 1999年10月31日) はカナダメイプルリッジ出身のレーシングドライバーである。

オーバルコースを得意とし、壁際ぎりぎりまで攻めるダイナミックさに、冷静さも兼ね備えた走りでファンを引きつけていた。

プロフィール

1991年にフォーミュラ・フォード1600に参戦し、1勝・2ポールポジション(以下PP)を挙げルーキー賞を受賞。1993年から1995年までは、インディライツシリーズに参戦。最終年度の1995年には12戦中10勝を挙げチャンピオンとなる。

CART

1996年からはインディカー・ワールドシリーズ(CART)にステップアップし、デビューイヤーながらも3度表彰台に上った。

1997年、第6戦を消化した時点で2度2位に入っていたムーアは、第7戦ミルウォーキーで初優勝。これは、22歳での最年少優勝記録だった。続くデトロイトでも2勝目を上げ、若手有望株として、またジャック・ヴィルヌーヴに続くカナダの新しいスターとして注目を浴びた。

1998年も第5戦リオ・デ・ジャネイロ、第12戦ミシガンで優勝し計2勝、また予選では4度のPPを記録。ランキング5位に食い込んだ。

1999年、ムーアは開幕戦のマイアミで優勝。その後、第19戦サーファーズ・パラダイスまで、パフォーマンス的に下り坂だったメルセデスエンジンにおいて1勝1PPを記録。2000年シーズンは、チーム・ペンスキーへの移籍も決まっていた。

事故死

1999年CART最終戦(第20戦)フォンタナにおいて、ムーアはパドック内のスクーター運転中の不注意により、右手の指を骨折。この怪我で予選を出走出来なかったムーアだったが、所属していたプレイヤーズ・フォーサイスでの最後のレースということから、怪我をおして出走を決意。特別措置を受けて好タイムをマークし、決勝での最後尾(27番手)からのスタートが認められた。

決勝日、ムーアは序盤から追い上げ4周目には15位まで浮上するが、リッチー・ハーン英語版が第2ターンでクラッシュし、フルコース・コーションとなる。そして再スタートとなった9周目、好スタートを決めたムーアは更に11位にまで順位を上げるが、直後の第2ターンで外側のウォールに軽く接触。

これによりバランスを崩したマシンは、スピンしながらコースアウトすると、芝生に引っ掛かり横転、コックピットから内側のフェンスに激突。その後跳ね返ると、その勢いのままパーツを撒き散らしながら数回転、マシンはコックピット部分を残して粉砕した(クラッシュの場面はあまりにも凄惨な場面であった為、プレイバックが止められた)。ムーアは病院に運ばれたものの、死亡が確認された。頚部、頭部を骨折しての即死であった。24歳没。

訃報がサーキットに届いたのは、レース終了後のことであり、サーキットにはカナダの半旗が掲げられ、関係者・観客による黙祷が実施された。

ムーアが死去したレースは、ファン・パブロ・モントーヤダリオ・フランキッティのチャンピオン決定戦でもあり、最終的にはモントーヤが最年少でチャンピオンを獲得。レース終了直後には、チームスタッフと喜びを分かち合っていた。しかし、ムーアの訃報がサーキットに届くと表情が一変、チャンピオン決定インタビューも沈んだ表情で受けることになった。またこの際、「おめでとうございます」、「素晴らしいシーズンでしたね」とステレオタイプ的に祝いの言葉をぶつけるインタビュアーに対し、「今はとてもそんな気分にはなれない」と返す一幕もあった。

評価

  • CARTで走った時期は4年と短い間だったが、その間に5勝・5PPを記録している。
  • CARTの若手筆頭株として、F1チームにも注目を浴びる存在であった。メルセデスエンジンで参戦していたことから、マクラーレンロン・デニスの目にも留まっており、F1への転向もオファーされていた。

死後

  • ムーアが付けていたカーナンバー99は、チャンプカー・ワールドシリーズ(CCWS)を主催するCART及びその後継組織であるOWRS永久欠番となったが、この永久欠番は2008年にCCWSがインディカー(IRL)に吸収合併されたことにより消滅した。なお、この99というナンバーは、ムーアが地元のレーシングカートで取ったライセンスにちなんだものである[1]
  • 死後、ムーアにちなんだグレッグ・ムーア基金が設立され、2004年には、ムーアの出身地であるメイプルリッジの、リッジ・メドー病院の拡張工事費の一部として寄付された。
  • 2005年、フォンタナにて行われたインディカー最終戦において、優勝したフランキッティは、ムーアを追悼する意味で、事故現場である第2ターンでドーナツターンを見せた。

記録

アメリカン・オープンホイール

(key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)

インディ・ライツ

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1993 グレッグ・ムーア・レーシング PHX
5
LBH
17
MIL
5
DET
8
POR
3
CLE
10
TOR
8
NHA
16
VAN
18
MDO
4
NAZ
8
LS
19
9位 64
1994 PHX
1
LBH
2
MIL
3
DET
7
POR
5
CLE
2
TOR
12
MDO
7
NHA
1
VAN
5
NAZ
1
LS
5
3位 154
1995 プレイヤーズ・フォーサイス・レーシング MIA
1
PHX
1
LBH
1
NAZ
1
MIL
1
DET
2
POR
1
TOR
1
CLE
1
NHA
1
VAN
5
LS
1
1位 242

CART

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
1996 プレイヤーズ・フォーサイス・レーシング
MIA
7

RIO
Ret

SUR
3

LBH
Ret

NAZ
2

MIC
Ret

MIL
5

DET
20

POR
Ret

CLE
3

TOR
4

MIC
17

MDO
Ret

ROA
Ret

VAN
Ret

LAG
6
9位 84
1997
MIA
4

SUR
2

LBH
Ret

NAZ
16

RIO
2

GAT
13

MIL
1

DET
1

POR
5

CLE
Ret

TOR
Ret

MIC
Ret

MDO
2

ROA
Ret

VAN
Ret

LAG
Ret

FON
Ret
7位 111
1998
MIA
2

MOT
4

LBH
6

NAZ
3

RIO
1

GAT
3

MIL
13

DET
5

POR
Ret

CLE
Ret

TOR
11

MIC
1

MDO
Ret

ROA
Ret

VAN
Ret

LAG
Ret

HOU
Ret

SUR
8

FON
2
5位 141
1999
MIA
1

MOT
4

LBH
8

NAZ
12

RIO
8

GAT
6

MIL
2

POR
13

CLE
Ret

ROA
4

TOR
Ret

MIC
Ret

DET
3

MDO
11

CHI
Ret

VAN
Ret

LAG
Ret

HOU
16

SUR
Ret

FON
Ret
10位 97

注:ミシガン・インターナショナル・スピードウェイでは1996年に2度レースが開催された。

参照

  1. ^ 『Racing On』No.308 ニューズ出版、1999年、p.26。

外部リンク

先代
ゴンサロ・ロドリゲス
チャンプカー/インディカーでの死亡ドライバー
1999年
次代
ダン・ウェルドン
タイトル
先代
スティーブ・ロバートソンン
インディライツ・チャンピオン
1995年
次代
デヴィッド・エンプリンガム




固有名詞の分類


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