グループB消滅後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 07:33 UTC 版)
「プジョー・205ターボ16」の記事における「グループB消滅後」の解説
グループBによるWRCにおいて死亡事故が相次いだため、当時国際的なモータースポーツ競技全般を管掌していた国際自動車スポーツ連盟(FISA)は1986年シーズンをもってグループBを消滅させることを発表し、1987年以降は下位グループのグループAで選手権が争われることとなった。グループAでの競技車輌の持ち駒のないプジョー・タルボ・スポールチームは、グループB消滅と同時にWRCの舞台から去ることになった。 ジャン・トッドは、205ターボ16による次なる戦いの場としてパリ・ダカール・ラリーを選び、1987年より本格参戦した。パリダカ用にホイールベースを延長するなど、大幅な改造を施した205ターボ16グランレイド(205T16GR)を持ち込み、1987年・1988年とパリダカを圧勝で2連勝するなど、砂漠でも無敵を誇ったことから「砂漠のライオン」と恐れられた。 また、1987年には毎年アメリカ独立記念日に行われるパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムレースにもアリ・バタネンのドライブで参戦したが、当時のコースレコードを樹立したヴァルター・ロールが駆るアウディ・クワトロ・S1の前に僅差で破れ、2位という結果に終わっている。 その後、1988年・1989年にはパイクス用よりロングホイールベース化した405ターボ16GRへ移行し、その戦闘力を確認すると翌年のパリダカにも投入される。
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