グラウビュンデン戦争:1620-1639
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 00:43 UTC 版)
「三十年戦争」の記事における「グラウビュンデン戦争:1620-1639」の解説
一方、ミラノからアルプス、チロルへ抜けるバルテリナ(ヴァルテッリーナ)は、オーストリアとスペイン領イタリアを結ぶ最短陸路であったため、ハプスブルク家は支配を望んでいた。バルテリナはスイスと結ばれたゆるやかな諸州同盟グラウビュンデンに従属していた。フランスとヴェネツィアはハプスブルク家に対抗し、ゲオルク・イェーナッチュを中心に派閥争いが起こったところ、1620年、スペインがバルテリナを占領した。その後1624年フランスが占領したが、1626年のモンゾン条約でスペインとフランスの共同保護領となった。しかし1628年からのマントバ継承戦争の際、再びハプスブルク軍が占領、1635年にはフランスが奪回し、1639年にはグラウビュンデンがフランスに反撃して、1639年9月3日のミラノ講和でグラウビュンデンはスペインへの従属となった。
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