エセクの事跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 08:24 UTC 版)
モンゴル年代記の1つ、『シラ・トージ』にはエセクは「オイラトのケレヌート」のオゲチ・ハシハの息子として生まれ、チョロースのバトラ丞相を殺し、その妻サムル公主を奪ったことが記されている。 一方、『蒙古源流』は「オゲチ・ハシハの息子のエセク」がダルバク・ハーンの死後に「エセク・ハーン」として即位したと記している。しかし、これは作者のサガン・セチェンが「サムル公主を娶ったこと」と「ハーンへの即位」を結びつけたために起こった誤りで、実際にダルバク・ハーンの死後に即位したのはオイラダイ・ハーンであった。 また、明朝の史料には15世紀前半に「賢義王太平」と呼ばれるオイラト部族連合の首長がいたことが記録されているが、「太平」をモンゴル語に訳すと「エセク Esekü」となるため、エセクと賢義王太平は同一人物と考えられている。
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