ウォール街の弁護士として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:56 UTC 版)
「ジョン・J・マクロイ」の記事における「ウォール街の弁護士として」の解説
マクロイはニューヨークに渡り、当時全米でも有数の法律事務所であったカドワラダー・ウィッカーシャム・アンド・タフト法律事務所(英語版)のアソシエイトとなった。1924年にはクラバス・ヘンダーソン・アンド・デ・ガーズドーフ法律事務所(英語版)に移籍し、セントポール鉄道など多くの富裕層のクライアントを担当した。1934年、1916年のブラック・トム爆発事件についてマクロイは新たな証拠を見つけ、ドイツへの損害賠償請求訴訟を再開した。 マクロイはナチスドイツの企業のために多くの仕事をし、後に「ツィクロンB」を製造したことで知られるドイツの大手化学産業トラストIG・ファルベンに助言を与えた。1940年に政府の仕事に就いた時点で、マクロイの年収は約4万5千ドル(2020年の価値換算で83万5千ドル)、貯金は10万6千ドル(2020年の価値換算で200万ドル)に達していた。第一次世界大戦中の破壊工作事件の訴訟に関わったことで、諜報問題やドイツ事情に強い関心を持つようになった。
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