アールミューレ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/22 14:22 UTC 版)
「インターラーケン」の記事における「アールミューレ時代」の解説
アールミューレの名は、1365年までに建てられたアーレ川沿いの水車に由来する。1365年から、インターラーケン修道院は毎週の市と毎年の大市をアールミューレで開くようになった。アールミューレは独自のボイヤート(農業協同組合)を有していたが、政治的にはマッテン市の一部となっていた。 16世紀、アールミューレのボイヤートと周辺地域のボイヤートが、コモンズ(入会地)にある平原や樹木の利用を巡って争いになった。1533年、1586年、1618年に仲裁が図られたが、いずれも失敗に終わった。その影響もあり、1633年にヴィルダースヴィルがマッテンから分離して、独立の自治体となった。アールミューレとマッテンの争いはその後も続き、1761年にはインターラーケンの長官が調停を試みたが、これも失敗した。ついに1810年、アールミューレとマッテンは共有財産を分割し、1838年にはアールミューレがマッテンから独立して自治体となった。 この独立の頃には、小作農の比率がアールミューレとマッテンでかなり異なっていた。1831年にはアールミューレの小作農率が37%であるのに対し、マッテンは12%であった。つまり、マッテンの住民は土地との結びつきが強く、農業を続けていたが、アールミューレの住民は成長してきた観光業に力を入れつつあったということを示している。 アーレ川の右岸では、ウンターゼーンが独立の自治体となって、インターラーケンの村落を吸収していた。1838年に左岸の村々はマッテンとアールミューレの二つの自治体に分かれたが、アールミューレでは郵便局と鉄道駅にインターラーケンの名が使われており、徐々に有名になっていった。アールミューレは1891年に正式に名称をインターラーケンに変更した。
※この「アールミューレ時代」の解説は、「インターラーケン」の解説の一部です。
「アールミューレ時代」を含む「インターラーケン」の記事については、「インターラーケン」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からアールミューレ時代を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からアールミューレ時代を検索
- アールミューレ時代のページへのリンク