アレッサンドリア包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 04:23 UTC 版)
「レニャーノの戦い」の記事における「アレッサンドリア包囲戦」の解説
「アレッサンドリア包囲戦」はフリードリヒ1世の、この遠征が雪辱戦であり、ロンバルディア同盟を完膚なきまでに叩き教皇を排除するという性格から、第5次イタリア遠征において重要な出来事であった。したがって次の目標はロンバルディア地方のアレッサンドリア市であった。アレッサンドリアはミラノの難民によって建設された。彼らは1162年にフリードリヒ1世の軍がミラノ市街を焼き破壊した後に逃げてきたのである 。そして名前は教皇アレクサンデル3世に由来する。 どの屋根も藁ぶきだったことから「藁の都市の包囲戦」と呼ばれたこの戦いは、10月の終わりに始まった。フリードリヒの驚きと怒りに対し、帝国軍はこの町を攻略できず、門の前で冬を過ごすことになった。聖土曜日に、フリードリヒ1世の軍は塀の下にトンネルを掘って侵入しようとした。しかし、ミラノ市民によって踏みつぶされて撃退された。アレッサンドリアの抵抗はロンバルディア同盟の最初の勝利であった。フリードリヒ1世は包囲を中止せざるをえなくなった上、ロンバルディア同盟軍が進軍してきたので、パヴィアまで後退した。
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