アメリカのステージおよび映画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:21 UTC 版)
「カルメン・ミランダ」の記事における「アメリカのステージおよび映画」の解説
リオでとある彼女の舞台を見た劇場のオーナーであるリー・シュバートは、ミランダと彼女のバンドバンド・ダ・ルアとの契約にサインした。1939年、ミランダは遠洋定期船SSウルグアイにてブラジルから出航し、5月18日にニューヨークに到着した 。彼女は、1939年6月19日“ストリート・オブ・パリ”にてアボットとコステロの相手役を演じアメリカでのステージ・デビューを果たした。彼女のパートは少なかった(彼女は4語を話すのみ)が、ミランダは良好な評価を受け、メディアの寵児となった。彼女の名声は急速に伸び、到着直後にホワイトハウス晩餐会でフランクリン・D・ルーズベルト大統領に対し正式に公演した。彼女は、ラテンアメリカとヨーロッパとの繋がりを強化するためのルーズベルト大統領の善隣政策の一部として、米国政府が奨励していた。こう云った方策がアメリカ国民の受けが良いと考えられていたためである。1940年、20世紀フォックスは『遥かなるアルゼンチン』(ドン・アメチーとベティ・グレイブル主演)の出演1回分の契約を彼女と結んだ。彼女は自身の上演に対し良好な評価を得、フォックスは彼女との長期映画契約を結んだ。
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