アフマド (ジョチ家)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/02 08:01 UTC 版)
| アフマド احمد |
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| 大オルダの第3代ハン | |
| 在位 | 1465年 - 1481年 |
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| 出生 | 不明 |
| 死去 | 1481年 |
| 子女 | ムルタザー、サイイド・アフマド、シャイフ・アフマド、バハドル |
| 家名 | トカ・テムル家 |
| 父親 | クチュク・ムハンマド |
| 宗教 | イスラム教 |
アフマド(ペルシア語: احمد Aḥmad、1460年以前 - 1481年1月[1]6日 サライ)は、ジョチ・ウルス最後の政権である大オルダのハン(在位:1465年 - 1481年)。大オルダのハンであるクチュク・ムハンマドの息子。
生涯
1465年、兄のマフムード・ハン(1459年より大オルダのハン)に反乱を起こして権力を奪取した。
1472年、ポーランド王カジミェシュ4世と同盟してモスクワ大公イヴァン3世に対抗、さらに1476年にはイヴァン3世の封臣の地位を承認させようとしたが、ロシアとの力関係がすでに逆転していた。
1480年、モスクワ大公国への軍事遠征を起こしたが、モスクワから150マイルのところでウグラ河畔の対峙を起こした。両軍とも数週間の間敵を挑発したが結局戦闘は起こらず、アフマド・ハンは撤退した。これにより、イヴァン3世はタタールのくびきから脱した。
1481年1月6日、シビル・ハン国のイバク・ハンにより殺害された[2]。
系図
ジョチから大オルダまでの系図
脚注
注釈
出典
- ^ Kołodziejczyk, Dariusz (2011). The Crimean Khanate and Poland-Lithuania: International Diplomacy on the European Periphery (15th-18th Century): A Study of Peace Treaties Followed by Annotated Documents. Leiden: Brill. p. 24. ISBN 9789004191907
- ^ Howorth 1880, p. 326.
参考文献
- Howorth, Henry Hoyle (1880) (英語). History of the Mongols, from the 9th to the 19th Century, Part II, Division I. London: Longman, Greens, and Co.. pp. 305-326
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