ふたつの松平家と柳沢吉保・幕府領時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ふたつの松平家と柳沢吉保・幕府領時代の意味・解説 

ふたつの松平家と柳沢吉保・幕府領時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 19:29 UTC 版)

佐貫藩」の記事における「ふたつの松平家と柳沢吉保・幕府領時代」の解説

内藤政長所領分割され安房勝山3万石内藤清政(政長の同族だが別系統)に、上総佐貫1万5000石は松平忠重桜井松平家)に与えられた。忠重は武蔵国深谷8000石を知行していたが、7000石を加増されて大名列したのである寛永10年1633年8月9日、忠重は駿河国田中藩加増移封され、佐貫藩廃藩幕府領となった寛永16年1639年1月28日寺社奉行であった松平勝隆能見松平家)が1万5000石で入ったことから、佐貫藩が再立藩する。勝隆は寛文6年1666年2月3日死去し、跡を養嗣子の重治が継いだ。重治は奏者番寺社奉行歴任したが、貞享元年1684年11月10日、不正の罪を問われ改易となったこのため佐貫藩再度廃藩となる。 元禄元年1688年)、将軍徳川綱吉寵臣側用人就任した柳沢保明(のち吉保)が、加増受けて1万2000石の大名となり、佐貫城与えられた。柳沢保明その後2度わたって加増を受け、元禄5年1691年)に石高は3万石になっている元禄7年1694年)、保明武蔵国川越藩加増転封され、佐貫藩は三たび廃藩となる。

※この「ふたつの松平家と柳沢吉保・幕府領時代」の解説は、「佐貫藩」の解説の一部です。
「ふたつの松平家と柳沢吉保・幕府領時代」を含む「佐貫藩」の記事については、「佐貫藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ふたつの松平家と柳沢吉保・幕府領時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ふたつの松平家と柳沢吉保・幕府領時代」の関連用語

1
32% |||||

ふたつの松平家と柳沢吉保・幕府領時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ふたつの松平家と柳沢吉保・幕府領時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの佐貫藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS