『日省録』の于山島
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1760年から1910年までの朝鮮王朝の国政全般を記した官撰の『日省録』に于山島の名が現れる。 1793年の項には「臣按本曹謄録 蔚陵外島其名松島 即古于山國也」(『礼曹謄録』を按ずるに、鬱陵島近隣の島である松島は、即ち昔の于山国である)という記述があり、『東国文献備考』の記述を見ていると考えられる。 1807年5月12日の項に鬱陵島を調査した役人の記録があり、「北有于山島周回為二三里許」(北に于山島があって周囲は二三里をなしている)と報告している。于山島が鬱陵島の北にあって周囲が約800m-1200m(朝鮮の1里は約0.4km)であることが分かる。この記述に一番近い島でいえば竹嶼ということになる。竹嶼は鬱陵島の北東にあって、南北に約700mほどの縦長の島である。
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