『戦争論』の執筆
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「カール・フォン・クラウゼヴィッツ」の記事における「『戦争論』の執筆」の解説
1818年に少将に昇進して陸軍大学校校長として勤務することになった。しかしクラウゼヴィッツが改革派であったことから配慮して陸軍当局はクラウゼヴィッツの権限を学問的指導ではなく規律の維持に制約していたために、クラウゼヴィッツに与えられた権限も限られたものであった。この時期の彼の交際範囲は限られており、グナイゼナウが時折クラウゼヴィッツを訪問しているか、またベルンシュトルフ外務大臣の自宅を訪問している程度であった。クラウゼヴィッツはフランス語と英語を習得していたために、1821年にイギリスのロンドン勤務を希望したが、イギリス公使と国王によって申し出は拒否された。その後の7年間はマリーとともに軍事学の研究に専念することになった。マリーはこの研究に協力し、シレジア要塞についてクラウゼヴィッツに随伴して作業を手伝った。マリーは分かれて生活している間に交わした書簡を通じて、軍事問題に関する知識を習得し、クラウゼヴィッツの見解を時には批判し、またクラウゼヴィッツの発表物の全てを清書している。
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