「カール・シュミットが辞めるか、私が辞めるかしかない」
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「マリオン・G・デーンホフ」の記事における「「カール・シュミットが辞めるか、私が辞めるかしかない」」の解説
以後、デーンホフは92歳で亡くなるまで『ディー・ツァイト』紙に身を捧げることになるが、1年ほど『ディー・ツァイト』を離れ、ロンドンに本拠を置く『オブザーバー』紙に寄稿していた時期がある。『ディー・ツァイト』紙が、ワイマール政権からナチス政権にかけてそのイデオロギーを支えた法学者カール・シュミットの記事を掲載した1954年のことである。デーンホフは「シュミットが辞めるか、私が辞めるかしかない」と妥協を許さない態度を示したが、経営責任者3人のうち2人の決定によりシュミットの記事は掲載された。彼女は後に、「最悪の場合、編集部がシュミットと話し合いの場をもつことは認めたが、彼に記事を書かせるわけにはいかなかった。私が第三帝国(ナチス・ドイツ政権)下で、「ハイル・ヒトラー」と言わない(ナチス式敬礼をしない)というような最低限の原則を守り通したのと同じだ」と語っている。翌55年、戦時中に反ナチズムにより英国に亡命していた政治家(ドイツキリスト教民主同盟)のゲルト・ブツェリウス(ドイツ語版)が経営責任者に就任したときにデーンホフは『ディー・ツァイト』紙に戻り、同年、政治担当編集委員、1968年に編集長に就任した。
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