秦朝 歴史

秦朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 09:43 UTC 版)

歴史

秦之疆域

起源と初期の発展

紀元前9世紀、古代の伝説上の政治顧問の伯益の臣)の子孫非子は、秦市の支配を認められた。現在の天水市張家川回族自治県が、この都市がかつてあった場所である。周第8代の王孝王の時代、この地域は秦として知られることになった。共和の時代の紀元前897年、この地域は馬の養育に当てられる属領となった[5]。非子の子孫の一人荘公は、この王朝の第13代の王平王から好感を持たれることになった。褒美として荘公の息子襄公は、正式に秦を建国する時期に遠征の指導者として東方に送られた[6]

近隣からの脅威による深刻な侵攻を受けることはなかったが、秦は紀元前672年に初めて中国中部に遠征隊を送った。しかし紀元前4世紀の初め、近隣は全て征服されていて、この段階は秦の拡張主義の興隆に向けた準備が整った時期であった[7]

勢力伸長

秦の政治家商鞅は、紀元前361年から紀元前338年に死去するまで数々の軍事的に有益な改革を主導し、秦の首都咸陽の建設にも協力した。後者の成果は、紀元前4世紀中葉に始まり、できた都市は、他の戦国時代の国々の首都に大いに似ていた[8]

商鞅の大理石の胸像

商鞅の改革で最も有名なのは、実際的で無慈悲な戦争を促進した法家の哲学を支持していたことであった[9]。対照的に周と次の戦国時代では、流行した哲学は、紳士の活動としての戦争に縛り付けていて、指揮官は戦闘における天の法であると理解したことを尊重するよう教育された[10]。例えば襄公[note 2] 戦国時代に楚と戦争をした際に渡河中に敵を攻撃するのを断った。渡り終え隊形を整えると、次の戦闘で決定的な敗北を喫した。助言者は後に敵に対するこのような過度の礼儀について忠告すると、「賢人は弱者を壊滅させたり敵が隊列を整える前に攻撃命令を出すことをしない」と言い返した[11]

秦は敵の弱点に優位に立ちながらこの軍事的伝統を無視した。の貴族は、秦を「強欲で邪悪で利益に聡く誠実でない国である。礼儀や相応しい関係、高潔な行為については無知で、物を得る機会があれば、動物のように家族を無視するであろう」と攻撃した[12]。その人が長く続く支配者の強力な指導力や他国から有能な人物を引き抜く開放性、このような強力な政治的基礎を秦に与えた国内に殆どいない反対派に関連するこの法家の実践者であった[13]

戦国時代の地図。秦は桃色で示している。

もう一つの秦の優位は、広大で効率的で[note 3] 有能な将軍がいたことである。同様に兵器や輸送で最新の物を利用し、敵の多くが失われた。この後者の発展は、中国の多くの地域で最も標準化される数個の異なる地形で大きな可動性を与えた[note 4]。従って思想と実践の両方で秦は軍事的に優れていた[9]

最終的に秦帝国は国を自然の要塞にする山々に守られた生産力や戦略的位置による地理的優位があった[note 5] 。拡大する農業生産高は、食料と天然資源と共に秦の広大な軍を維持するのを助け[13]、紀元前246年に作られた渭水は、この点で特に重要であった[14]

戦国時代の国々の征服

秦朝に先立つ戦国時代に優勢に争う主要な国は、・秦であった。この国の支配者は、嘗て用いた低い肩書きを用いるよりも自らを王と位置付けた。しかし誰も周の王が用いたような「天命」があるとか犠牲を求める権利があると考えて上位に位置付けることはなかった(周の支配者のものとした)[15]

紀元前4世紀と紀元前3世紀の征服の前に秦は数回の挫折を経験した。法は貴族にさえ適用されると商鞅が主張したために処刑された学生について武王による怨恨により紀元前338年に商鞅が処刑された。紀元前307年の秦の継承に関する国内の反目もあり、秦の権力を幾分分散化させた。秦は紀元前295年に他の国の連合軍に敗れ、軍の主体がこの時斉に対する防衛にとられていたために一時趙にも敗れる危険があった。しかし暫くして積極的な政治家范雎が後継問題が解決されたために首相として権力を掌握し、他の国を征服する企図を持つ秦を促すや斉に始まる拡張主義政策を始めた[16]

秦は他国との争いには敏捷であった。初めて真東の韓を攻撃し、紀元前230年に国都新鄭・元国都陽翟を獲得した。それから北に向かい、趙が紀元前228年に降伏し、最北の燕が続き、紀元前226年に陥落した。続いて秦は東へと戦線を向かわせ、その後同様に南に向かい、紀元前225年に魏の国都大梁を獲得し、紀元前223年までに楚を降伏させた。最後に洛陽にある周の残存地を取り除き、斉を征服し、紀元前221年に国都臨淄を獲得した[17]

征服が紀元前221年に完了すると、始皇帝[note 6] 9歳で初めて秦の玉座につき、中国の事実上の支配者になった。首相呂不韋の退官で唯一の支配者としてその地位を確実なものにした。その際始皇帝という新たな名前に以前の三皇五帝の肩書きを付け加えた[18][note 7]。新たに名乗った皇帝は、秦の所有でない武器は全て没収し溶かすよう命じた。集められた金属は、秦の新首都咸陽の観賞用彫像12体を建造するのに十分な量であった[19]

南方への拡大

埋葬地近くの始皇帝の大理石の彫像

紀元前214年に始皇帝は大軍の一部(10万人)と共に北の国境線を固め、南の部族の領域を征服するために南方に軍の大半(50万人)を送った。中国に対する秦の支配に優先する事象に先立ち、南西の四川の多くを獲得していた。秦はジャングルでの戦いに慣れておらず、南方部族のゲリラ戦で10万人を超える損失を出して敗北した。しかしこの敗北で秦は南方への運河の建設に成功し、南方への第二次攻撃で軍を送り補強するのに大いに用いられた。こうしたものの建造で秦は広州[note 8] 周辺の運河地帯を征服し、福州桂林という地域を獲得した。ハノイに至る南方まで攻撃した。南方でのこの勝利の後、始皇帝は10万を超える捕虜を移動させ、新たに征服した地域の植民地化のために移住させた。帝国の境界線の拡張期間に始皇帝は南方で非常に成功した[19]

匈奴に対する軍事行動

しかしこの時期の帝国が北方に拡大する一方で秦は長期間その土地に踏み留まれたことは滅多になかった。秦が纏めて五胡と呼んだこの地域の部族は、秦の大半の時代は中国の支配を受けなかった[20]。秦の農民との取引が禁止され、中国東北地方のオルドス地方に住む匈奴は、秦が報復するよう促しながら代わりに侵攻することが珍しくなかった。蒙恬将軍率いる軍事作戦英語版後、この地域は紀元前215年に征服され、農業が始められたが、農民は不満を抱き、後に暴動を起こした。次の漢は、人が溢れたことでオルドス地方に拡大もしたが、その過程で資源を激減させた。オーウェン・ラティモアは二つの王朝がオルドス地方を征服しようとしたことについて「征服と拡大は、実体のないものであった。いかなる形であれ反応の起こる成功はなかった。」と述べた[21]。確かにこのことは多角的に見て王朝の国境については事実であり、現代の新疆ウイグル自治区・チベット・満州・内モンゴル自治区・南東部の地域は、秦にとっては外国であり、軍事的に支配した地域でさえ文化的には別個のものであった[22]

失権

第2代皇帝の銅製の布告

始皇帝に対する暗殺が3度試みられ[23]、始皇帝はその結果偏執狂的になり不死に取り憑かれた。始皇帝は秘薬は海の怪物に案内された島に残されていると主張する道士から不死の秘薬英語版を入手する意図を持って帝国の東端に旅した紀元前210年に死去した。首席宦官趙高と首相李斯は、第2代皇帝になる死んだ皇帝の最も従順な息子胡亥に王位を譲る意思を翻意できるまで帰還中死の知らせを隠した[24]。自分達の目的に合わせて胡亥を操作できると考え、従って事実上帝国を支配できると考えた。確かに胡亥は不器用で従順であった。多くの大臣や王子を処刑し、大規模な建造事業を続け(最も浪費した事業の一つは城壁に漆を塗ったことである)、軍備を増強し、増税し、悪い知らせをもたらした者を逮捕した。その結果中国全土で暴動が起き、官吏を襲撃し、群衆を決起させ、掌握された地域で王を自称する者が現れた[25]

この間、李斯と趙高は、失脚し、李斯は処刑された。趙高は胡亥の無能を理由に胡亥に自殺させることにした。このことに対して子嬰は、帝位に就き、直ちに趙高を処刑した[25]。増大する騒乱が人民の間で拡大し多くの地方の官吏が自ら王を名乗るのを見ながら子嬰は[note 9]、他の王と同じ王の一人と自ら表明することで帝位にしがみつこうとした[14]。しかし自分の愚かな行為で傷つき、大衆の反乱が、紀元前209年に発生した。劉邦副官の下で楚の乱が起きると、そのような混乱の状態は長続きしなかった。子嬰は紀元前207年に渭水近郊で敗れ、まもなく降伏し、楚の指導者項羽に処刑された。秦の首都は、翌年破壊され、このことは秦帝国の終焉であると他の歴史家同様にダーク・ボッド英語版から看做されている[26][note 10]。その際劉邦は項羽を裏切り破り、紀元前202年2月28日に自らの高祖[note 11] を名乗った[27]。秦朝は、短い期間にもかかわらず後世の王朝の構造に、非常に大きな影響を与えた。


注釈

  1. ^ 秦の始皇帝は、王朝は1万世代続くであろうと自慢したが、15年程度で滅んだ。(Morton 1995, p. 49)
  2. ^ 後世のの公と混同しないこと
  3. ^ このことは「文化と社会」節で述べる(商鞅により実行された)地主政策の結果得られた広大な労働力による。
  4. ^ 兵器と共にこのことは秦の軍事と政府を語る節で詳述している。
  5. ^ ここは関東として知られる長江流域の地域と対照的に関中の中心であった。関中の秦の戦争に適した自然は、漢の「関東は大臣を作る一方で関中は将軍を作る」という金言に進化した。(Lewis 2007, p. 17)
  6. ^ 個人名は嬴政であった。
  7. ^ 現代中国の習慣は、姓として王朝名を加える慣習があるので、この場合は秦の始皇帝となる。後に中国人の名前が4文字の例は稀なので、こちらは秦始皇と縮められた。
  8. ^ 嘗てはカントンとして知られていた。
  9. ^ このことは画一性を強いる秦の企図にもかかわらず生き残る地域格差に大いに原因があった。
  10. ^ 秦の始皇帝は、王朝は1万世代続くと自慢したが、僅か15年程度で終演した。(Morton 1995, p. 49)
  11. ^ 「高い祖先」を意味する
  12. ^ 名称は支援者で他の国の征服前の首相呂不韋に由来する。
  13. ^ 「儒教」という用語は、事実「孔子の道」として知られることの原則を拒否したこの文脈の多い自称としての儒者においては逆に明白でなく、後世のの儒者と違い組織化されていなかった。
  14. ^ 犠牲は常に動物であり、人間の犠牲は、古代中国では禁じられていた。
  15. ^ しかし斉の神秘論者は、犠牲を不死になる方法という別の見方をした。

参照

  1. ^ 鸟虫篆文体
  2. ^ 村松弘一「黄土高原西部の環境と秦文化の形成 : 礼県大堡子山秦公墓の発見 (堀越孝一先生退任記念号)」『学習院史学』第42巻、学習院大学史学会、2004年、128-142頁、hdl:10959/00005252ISSN 0286-1658NAID 1200071746252022年11月29日閲覧 
  3. ^ 梁雲「早期秦文化の起源と形成」『秦の淵源―秦文化研究の最前線―』2021年、50-85頁、doi:10.15083/0002000772NAID 1200071265462022年11月29日閲覧 
  4. ^ Tanner 2010, p. 85-89
  5. ^ Lewis 2007, p. 17
  6. ^ Chinese surname history: Qin”. People's Daily Online. 2008年6月28日閲覧。
  7. ^ Lewis 2007, pp. 17–18
  8. ^ Lewis 2007, p. 88
  9. ^ a b Morton 1995, p. 45
  10. ^ a b Morton 1995, p. 26
  11. ^ Morton 1995, pg. 26
  12. ^ Time-Life Books 1993, p. 86
  13. ^ a b Kinney and Clark 2005, p. 10
  14. ^ a b Lewis 2007, pp. 18–19
  15. ^ Morton 1995, p. 25
  16. ^ Lewis 2007, pp. 38–39
  17. ^ Lewis 2007, p. 10
  18. ^ a b c World and Its Peoples: Eastern and Southern Asia, p. 36
  19. ^ a b c d Morton 1995, p. 47
  20. ^ Lewis 2007, p. 129
  21. ^ Breslin 2001, p. 5
  22. ^ Lewis 2007, p. 5
  23. ^ Borthwick, p. 10
  24. ^ Bai Yang (Chinese). Records of the Genealogy of Chinese Emperors, Empresses, and Their Descendants (中国帝王皇后親王公主世系録). 1. Friendship Publishing Corporation of China (中国友誼出版公司). pp. 134–135 
  25. ^ a b Kinney and Hardy 2005, p. 13-15
  26. ^ Bodde 1986, p. 84
  27. ^ Morton 1995, pp. 49–50
  28. ^ Lewis 2007, p. 11
  29. ^ Lewis 2007, p. 102
  30. ^ a b Lewis 2007, p. 15
  31. ^ Lewis 2007, p. 16
  32. ^ Lewis 2007, p. 75–78
  33. ^ World and its Peoples: Eastern and Southern Asia, p. 34
  34. ^ Bedini 1994, p. 83
  35. ^ Readings in Classical Chinese Philosophy, p. 61
  36. ^ Lewis 2007, p. 206
  37. ^ Borthwick, p. 17
  38. ^ a b Borthwick, p. 11
  39. ^ Bodde 1986, p. 72
  40. ^ Borthwick 2006, pp. 9–10
  41. ^ Chen, pp. 180–81
  42. ^ Borthwick 2006, p. 10
  43. ^ Morton 1995, p. 27
  44. ^ Mausoleum of the First Qin Emperor”. UNESCO. 2008年7月3日閲覧。
  45. ^ Lewis 2007, p. 178
  46. ^ Lewis 2007, p. 186
  47. ^ Lewis 2007, p. 180
  48. ^ Lewis 2007, p. 181
  49. ^ Keay 2009, p. 98.
  50. ^ Bodde 1986, p. 20





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