禁厭秘辞 概要

禁厭秘辞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/11 01:42 UTC 版)

概要

 潮江天満宮神官であった宮地水位が、明治27年6月1日から15日にかけて記したものである。出雲文字で筆記された古い巻物の伝法で外患病を取り除く禁厭の唱え文を註釈している。水位はこの時期にその他に『五臓文集』、『神道洗霊式』、『永言集』、『続々和漢名数』等も書き残している。

水位は『禁厭秘辞』の執筆から18年溯る明治9年に土佐大城戸在住の川村家を訪れ、その折に信仰の深い老婆から相談を受けた。水位も知己の川村茂之助という壮年の息子が難病に罹り八方手を尽くしたが、医者から匙を投げられ、藁をも掴む思いで神官である水位に祈祷を頼んだのだった。その相談の折に、老母は息子が精神分裂病(統合失調症)になったのは川村家に代々伝わる門外不出の家宝の巻物が禍してるのではないかと水位に尋ね、この曰く付きの一巻の古い巻物(長三尺幅二尺)を水位に差し出した。早速拝観して手にとり開き見ると、その古風な箱に入れられた軸装の巻物は黄土で塗られており全文が神代文字で書かれていた。同じ原図の巻物から書き写されたであろうと思われる写本の故紙や筆墨なども拝見すると、少なくとも数百年前に原本から模写されたもので、老母の話しぶりからも、水位は直感的に大穴持神伝来の奇しき禁厭の施行法について記載されているものに間違いないと判断した。水位は写本を借覧して持ち帰り、早速書架に積まれた夥しい古書の中から関連する文献類や平田篤胤神字日文伝附録などを抜き取って紐解き見比べ神代文字で書かれた巻物の文字及び内容を比較類推して解読するやいなや、書き記されている通りに病者に施すと不治の難病が徐々に全快して完治したという。この時期の水位は神官奉仕の余暇に『玉泉九転論』や『神仙順次伝』、『還丹保身編』、『導引法房中談』、『神仙霊感使魂法訣』などの著作をものしており、該博な知識を縦横に駆使して玄学に関する書物なども書き残していた。

この時期に水位が模写した巻物の写本は、後に大洲出身の平田学派の門弟・矢野玄道の求めに応じて明治18年3月に矢野に譲られている。玄道は篤胤の後継者とも目された俊秀な門人の一人であり、若き頃より玄学に造詣深く雲笈七籤をひも解き道家の学を体得して実践していた。縁あって潮江天満宮神官・常磐・堅磐父子の存在を知り以後その機縁により水位との交流を深め、時折書籍(水位の著作・訂正大學)なども借覧して水位の謦咳に接していた。

水位は神秘秘言や、古来から伝わる様々な民間伝承のまじないについても造詣が深い。

『禁厭秘辞』は、禁厭の原理や起源から解き起こし、出雲古代文字で認められた巻物の由来や経緯を水位が詳細にまとめて解釈をほどこし、緻密な考証と論考がちりばめられた玄学の書である。論稿の中で水位は、出雲古代文字の解明に、平田篤胤の集記した『神字日文伝附録』が大いに参考になったと記している。この『日文伝附録』は、当時日本に伝わる神代文字を精力的に蒐集していた篤胤が、『仙境異聞』に登場する異界に通じた仙童寅吉少年が常陸国岩間山幽界に入山の折に、自著『霊能真柱』の進呈とこの『神代文字疑字篇』の誤りの訂正および書簡などを寅吉に託して、寅吉の師匠である山神様の下に届けてもらったといういわくのある書物である。異聞によると、異界から戻った寅吉は篤胤と再会し、二三の文字を山神さまから訂正されたが、神代文字についてはよくぞ集められたとお褒めと労いの言葉を賜ったと記載している。水位は疑字篇の中に掲載されている二十数種の日文(ひふみ)文字の中から出雲国石窟神代文字を参照にして、禁厭の読解と解説を補足した。

また水位は『禁厭秘辞』の中で、後人の研究者のために禁厭に関する文献資料を下記のように紹介している。

禁厭法の俗間に通用せるは、錦嚢智術全書七冊、妙術博物筌七冊、萬方智恵廼海二十冊、拾玉続智恵海三冊、同新智恵海三冊、萬方玉手箱一冊、萬方雑志五冊、遠當秘記八冊、同附録ニ冊是れ板刻の書なり。又板にならぬ書にては、妙術群門二十五冊、探淵秘事六冊、禁厭百術一冊、和漢禁厭遺鈔十二冊、斎部傳方彙三冊此餘にも多くあれども、或るいは梵字を用い符を書するの類多く、是らの書には功なき物最も多し。又漢書にては四百余部ある中に鴻宝淮南畢術記三冊、墨子枕中五行記ニ冊、玉女隠微一冊、天術淵海六冊是は外国のものながらも取るべき事最も多く、又佛書に至りては禁厭は実に沢山にして、今茲に出す事得ず経文委しく咒とある条は多くは禁厭法なり〔以下略〕 — 『禁厭秘辞』

加えて自身がこれ等数多の文献を紐解いて知悉してるだけでも7~800種のまじない法があり、禁厭の中には死物化したものや霊験のないものも数多含まれているが、中には霊験灼然な尊詞も混じっていて、侮れない感があると見解を述べている。

この巻物との出会いが機縁となって幽界文字に興味を持った水位は、明治23年5月3日に讃岐の門人宅において『鴻濛字典』漢字(太古字および幽界文字)に相当する神代古文字1,069字、大字にて幽界字42字を一気呵成に記した。地上文字文明淵源五千年、幽冥界文字に及んだのはこの字典を嚆矢とする、と土佐五台山の神仙道本部・清水南岳が賛嘆している。

水位は後日、禁厭や呪術に関連する著述を執筆中に再び一昔前に書き留めた記録資料を参考に、『禁厭秘辞』を書き補足しておられる。大洲の矢野玄道は宮地家訪問のおりに、水位からこの不可思議な話を聞かされ、大城戸の川村家に伝来した写しの巻物を譲り受け、また私家製本の数冊を水位に懇願して借覧して持ち帰り模写したと思われる。これらの写本類の一部は、後世になって山口県田布施町の宗教法人・教派神道団体の磐門神社が入手して復刻し、他見厳禁の誓約のもと一部の極少数の信者間に頒布している。この他、田布施町在住の主催者が、宮地家と姻戚筋の兼山神社宮司・宮地美数より『禁厭集』上・下2冊の内の1冊を借り受け、上巻を翻刻出版したが、下巻は未公開である。上巻はまじないや霊符を掲載し、下巻は禁厭の施行法を具体的に記述したものだと言われている。

『禁厭秘辞』と称す和本は山口県田布施の編のみではなく、奈良・京都周辺の古社の土蔵や土佐の門人末孫の旧家などでも模写本は散見される。水位は寛容温和な性格で、矢野玄道に限らず高弟達の所望に快く応じて自身の書籍を貸し与えていたからである[1]

水位没後に宮中掌典職の宮地厳夫が遺稿類他神宝類一切を譲り受け、その没後は子息の一人寒川神社宮司・宮地威夫が保管していたが、昭和20年代前半に、香川出身の新聞記者清水宗徳 (神道家)が機縁によりこれらを預かり受けて始めたのが、土佐五台山の神仙道本部である。当時は宮地家の継承者が幼少のため、成人に達し一定の期日が来るまでの間、清水が託された神宝を代行する条件であったが、昭和63年12月3日に清水が、翌年その妻が死去した後に、弟子の数人(北海道紋別滝上の社家の神職並びに紋別潮見町在並びに神戸鈴蘭台在)が勝手に持ち出して私腹として返還しないために、宗家が宮地家の任務を遂行できず現在に到る。


  1. ^ 文献[要文献特定詳細情報]や在野研究家[誰?]への口頭調査によると、当時[いつ?]水位は熱心な弟子たちに対して『禁厭秘辞』と一緒に関連文献として自著の『巫医梯』を貸し与えていたと[誰によって?]推測されている。





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