神流川の戦い 影響

神流川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/07 04:33 UTC 版)

影響

北条氏

勝利した北条氏直は、滝川一益を追う形でそのまま碓氷峠を越え、6月26日には佐久郡の諸豪を臣従させた。7月9日には真田昌幸が誼を通じ、小諸城まで進出、更に木曾義昌や諏訪頼忠に所領安堵状を与え、信濃も半ば手中するかに見えたが、同じく北信濃に進軍してきた上杉景勝と対峙することになった。また同9日に甲斐を徳川家康が抑えており、更に南信濃を伺った為、三つ巴の対立(天正壬午の乱)へと発展していった。なお一益が木曾義昌に引き渡した佐久・小県郡の人質は、9月17日に徳川家康に引き渡され[24]、北条氏は佐久・小県郡の諸将に離反されている。

滝川氏

一方の敗れた一益は6月27日の清洲会議に出席出来ず、織田家における一益の地位は急落した。翌天正11年(1583年)正月、一益は織田信孝柴田勝家に与して羽柴秀吉と激突、秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も織田信雄蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、4月23日に北ノ庄において自害、4月29日には信孝も岐阜城を落とされ自害してしまう。残された一益は長島城で籠城し続け意地を見せたが、7月に降伏。これにより一益は所領を全て没収され、出家し入庵と号した。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いが始まると、今度は秀吉方として織田信雄の家臣・九鬼嘉隆前田長定を調略し、信雄の長島城と徳川家康の清洲城の中間にある蟹江城を攻略、徳川・織田の主力を相手に半月以上籠城するが遂には敗れ、伊勢に逃れた。しかしこの功により秀吉から1万5,000石を与えられ大名に返り咲いた(蟹江城合戦)。同時に、一益は天徳寺宝衍山上道及等と共に秀吉の東国外交を担っており、佐竹義重梶原政景と書状を交わしている。その内容は秀吉の北条征伐を予告するものであり、彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられる[4]。天正14年(1586年)9月9日、滝川一益は病死した。

関東衆

残された滝川方の諸将のうち由良国繁長尾顕長は、北条高広と同様に滝川一益と早々に手切れをして北条氏についている[28]。その他の諸将も全て北条氏に降った。

富岡秀高は神流川の戦いにはどちらにも参陣しなかった為、北条氏直より不信を買っている[29]

内藤昌月は北条家に降り、箕輪城には北条氏邦が入ったが、内藤家に身を寄せていた保科正俊正直親子は北条勢に同行して信濃に入り、高遠城を奪還している。その後、保科正直は徳川方に転じ真田昌幸の上田城攻めに参加し、内藤昌月は北条方に留まり真田昌幸の沼田城攻めに参加している。

天正10年(1582年)北条高広、真田昌幸は上杉景勝と結び、天正12年(1584年)由良国繁、長尾顕長は佐竹義重・宇都宮国綱佐野宗綱と結び(沼尻の合戦)、それぞれ北条氏から離反するが真田昌幸を除いて皆敗れ、北条氏に再度降った。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐において、真田氏以外の諸将は北条傘下であった為、真田昌幸、佐野房綱(天徳寺宝衍)、由良国繁を除く諸氏(倉賀野氏、安中氏、内藤氏、和田氏、高山氏、深谷氏、上田氏、富岡氏、成田氏等)は皆没落した。なお真田昌幸の娘・於菊は宇多頼次に嫁いだが、関ヶ原の戦いにより宇多氏が没落し、一益の孫・滝川一積と再婚している。


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 『上州治乱記』
  2. ^ a b c d e f 『石川忠総留書』
  3. ^ 『北条五代記』
  4. ^ a b c 『戦国時代の終焉』斎藤慎一
  5. ^ a b c d 『滝川一益事書』
  6. ^ 『赤羽記』(保科記)、『「神流川合戦記」-郷土史蹟 史記による関東最大の戦』p.6(千木良英一)
  7. ^ その他、『北条五代記』『関八州古戦録』『武徳編年集成』『上州治乱記』『甫庵信長記』
  8. ^ 『富岡家文書』富岡六郎四朗宛返報「、京都之儀、其以後何共不承候、無別条之由候、」
  9. ^ (訳)『群馬県史 通史編3 』p.674-675
  10. ^ a b c 『新編高崎市史 通史編2中世』p.290-291
  11. ^ 『管窺武鑑』、『戦国武将と神流川合戦』p.149-151(千木良英一)
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba 『神流川合戦記(金讃本)』
  13. ^ a b 『石川忠総留書』
  14. ^ a b c d e f g 『上野国赤坂荘和田記』
  15. ^ a b c d e f g 『上野古戦録』
  16. ^ 『大日本史料 第十一編之一』P.668
  17. ^ 『小田原記』
  18. ^ a b 『松平義行氏所蔵文書』六月二十二日付某書状
  19. ^ 『戦国武将と神流川合戦』千木良英一
  20. ^ 『新編高崎市史 通史編2中世』p.290-291
  21. ^ 『依田記』『上野古戦録』『新町町誌 通史編』p.133
  22. ^ 『依田記』『北条五代記』
  23. ^ 『関八州古戦録』
  24. ^ a b 平山優『天正壬午の乱』
  25. ^ 『千曲之真砂』
  26. ^ 『信濃史料』15巻、265頁
  27. ^ 『木曾孝』
  28. ^ 『松平義行氏所蔵文書』六月二十二日付某書状
  29. ^ 『富岡家文書』七月二十日付富岡六郎四朗宛北条氏直書状






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